見出し画像

第109回往復書簡 足立山(日記と手紙)

牧野伊三夫 →  石田千さんへ

  年の瀬

 暮れになると、いつも思い出す光景がある。三十代のはじめ、武蔵小金井の町はずれに屋根に穴のあいたオンボロ長屋を借り、アトリエにして油絵を描いていた頃のこと。金もないくせに、正月に好物の数の子だけはなんとしても上等のものが食いたかった。駅前商店街の魚屋へ行くと、樽に入った数の子を量り売りしているところに行列ができていた。魚屋のおやじに希望の本数を告げると、忙しそうに冷たい水のなかからすくいとってビニール袋に詰め、秤にのせて価格を言い渡す。前に並んだ人たちは順に、十本、二十本と沢山買っていたが、いよいよ自分の番になり、僕が「二本」と言うと、魚屋が、本当かという表情をして僕の顔を覗き込んだのだ。ともに貧乏暮らしをしていた妻と僕の分、一本ずつである。その瞬間、なんだか日暮れて寒く薄暗いなかで、魚屋の顔だけにスポットライトが当たっているようだった。その二本の上等な数の子を、実家の母が作るのと同じつゆに漬け込んで、元旦にお屠蘇をやったあと燗酒の肴に、しみじみと味わって食った。今年は、小倉の旦過市場と国分寺のいなげやで買ったのを混ぜて、これから塩ぬきをする。正月にバリバリ食って盛大に酒を飲むのである。また金がなくなったら、そのときはそのとき、魚屋に並べばよい。
 暮れに行う個展が、ちょうど二十回目の節目の年だった。来られなかった千さんにも読んでもらいたいので、会場に掲出した挨拶文をここに残しておくことにする。さて、さて、来年、僕はどんな絵を描くのだろうか。

____________________

  HBギャラリーでの二十回目の
  個展に寄せて

 ことしはサン・アドを辞め、画家としての活動をはじめて三十年の節目となる。ご想像通り、いろいろあっての凸凹道だった。折しも、このHBギャラリーでの個展もちょうど二十回目である。なにか特別な展示をやるべきだろうと意気込んでいたが、ふと、そういうことが嫌いであることに気がついて、いつもながらの展示になった。そもそも気合を入れて描いた絵など、うっとおしいと思う。日々の食卓でいただく、おいしい豆腐のような絵が描ければそれでよいと考えてきたが、さて、いかほどできたか。年を重ねるごとに自分の絵についての迷いは深まっていくばかりで、どうも画境に到達するなどということには縁がないように思う。この頃は少し白髪も増えてきたし、もう、それでよいのだとひらき直ってもいる。
 HBギャラリーでの最初の個展は二〇〇一年で、僕はまだ三十七歳だった。翌年一回休みがあった後は、二〇〇三年から毎年行ってきた。いつも暮れが押し迫った頃なので、あるときから案内状を差し出すと、もうそんな時期なんですねと年の瀬の名物のように言われるようになった。二回目の個展の搬入を終え、打ち上げの酒を飲みに表参道を歩いていたときだったと思う。HBギャラリーのオーナーで、絵描きの先輩でもあった唐仁原教久さんから、「これから、毎年最後の展示は牧野に決めた」と言われて、ひどく戸惑ったことをおぼえている。まだ若かったし、クリスマスや忘年会などでみんなが浮かれている時期に、どこへも行かずに一人アトリエにこもるのが淋しくて仕方なかったのである。どうにも、こういうところが凡庸なのである。しばらく下を向いていると、「もっと喜べよ」と唐仁原さんから肩をたたかれてはっとした。唐仁原さんとしては、無名の僕に大役をまかせる大きな決断をしたのに、僕の反応が物足りなかったのだと思う。
 そんなはじまりだったが、これまで画業を続けてこられたのは、この毎年の個展があったからである。気まぐれで何かにつけて遊んでまわる自分にとって、一年のしめくくりに絵描きとしての断頭台を用意してもらっているのは、画業に緊張感がもててありがたいことだった。おかげで、竹が節をつくって伸びていくように、なんとか立って絵描きとしての体裁を保つことができている。いつしかHBギャラリーは、僕にとってとても大切な場所になった。
 二十回もやると、いろいろな思い出がある。もっとも忘れられないのは、焚火禁止を通告されたときのことである。近年は十二月二十日過ぎに最終日を迎えるが、はじめの頃は二十六、七日と年末ぎりぎりまでの展示だった。クリスマスイブにライトアップしたきらびやかな表参道で、地味な絵など並べて在廊しているのは、どうにも面白くなかった。夕方からは、ほとんど誰もやって来ない。パーティとか、忘年会とかへ行く知り合いが着飾って、ちょっと挨拶にという感じでやってくるが、腕時計を見て足早に去っていき、ギャラリーのなかは静まり返っていた。それで僕は、家から七輪を持ちこみ、表参道で拾った枯れ枝を燃やし、やかんで湯を沸かして、ギャラリーの入り口で独り燗酒を飲むことにした。すると、こんな時期にも同じく暇な人はいるもので、ぽつぽつと一緒に飲んでくれる人が現れた。そのうち、酒が足りない、つまみが欲しいと近くで買って飲むようになったが、寒空の下で見知らぬ人と自己紹介などしながら肩寄せ合って飲む酒はやけにうまくて、愉快だった。
 味をしめた僕は、翌年は初日から七輪を二つ持ってきて、ひとつは酒の燗、もうひとつはスルメや芋などを焼いて夕方から飲むようになった。お客のなかには酒と肴を持参して来る人もいて、だんだんと絵よりもこちらの方が中心になり、入り口に酔っぱらいがたむろするようになった。誰が見ても、暮れの表参道には似つかわしくない、一杯呑み屋の風情であった。この酒場は年ごとにエスカレートしていき、初日に仙台からスチロール箱に入ったホタテやカキ、カニなどの魚介が届き、なかには会社をさぼって昼間からねじり鉢巻きをしめ、団扇で炭火をおこす人まで現れた。調子にのって、僕も赤提灯など下げて一緒に飲んだが、そのうちギャラリーのなかに目が痛いほど煙がたち込め、絵を燻すようになった。もうこの頃には絵ではなく、この酒場が楽しみで来たのだと、僕に向かってはっきり言う人もいたが、それでもよいと思っていた。暮れはやはり、仲間たちと集って、にぎやかに過ごす方がよいだろう。さらにバーベキューコンロまで用意して盛大にやっていたが、あるときついに、近所から苦情がきたということで、残念ながら中止となってしまった。ここがギャラリーであることを思えば当然のことである。二十年をふり返って、こんな想い出がはじめにくるのはどうしたものか。ひろい心で見守ってくれていた唐仁原さんと、その頃、酒を飲んで過ごしてくれた方々に感謝するばかりである。

(12月27日月曜日)

庭のスケッチ 2021年12月20日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?