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第43回往復書簡 ラジオとハム

牧野伊三夫 → 石田千さんへ

 師匠の嵐山さんから、ご著書の『窓辺のこと』を雑誌で紹介していただいたとの由、さぞやうれしかったこととお察しします。よかったね。
 ずいぶん涼しくなって、今朝は夏が終わってはじめて僕は長ズボンを穿いた。お彼岸を過ぎて、夏の少年気分もいよいよおしまいだ。
 朝最初にかける音楽は、ながい間パブロ・カザルスが演奏するバッハの無伴奏チェロ組曲と決めていた。二十代の半ばらから五十代半ばまでずっとそうだったが、いくら聴いてもあきることなく、むしろ深みにはまっていった。はじめのころはステレオのタイマーをセットして、目覚めてからもしばらく布団のなかで聴いていた。東芝EMIから発売されている二枚組のアルバムだが、あるとき音がとぶようになったので同じものを買ってきた。しかしどういう変化か、最近になってぱったり聴かなくなった。もう耳の容量がいっぱいになったのかもしれない。
 いまは朝六時からNHKのラジオでかかる「古楽の楽しみ」を聴いている。この番組は何人かの人が持ち回りで中世ルネッサンスからバロック時代あたりのクラシックをかけるのだが、なかでも僕は関根敏子さんが一等すきだ。三百年ほど前の聞いたこともない作曲家の曲を丁寧に解説してかけてくれるのも楽しみなのだが、彼女の朴訥としたぼそぼそと小声で、まるで藪のなかにいるコオロギにでも話しかけるような話し方が、寝起きの耳にはとても心地よいのである。僕はこの番組を、コーヒーを淹れてアトリエで一人静かに聴くのがなにより楽しみである。でも、放送のない日や好みでない曲がかかる日もあって、そういうときは青木隼人君のギター曲をかける。青木君のアルバムはすべて持っていて、もう十年以上何度も聴いているが、まったく色あせたりすることのない音楽である。
 先週、僕が挿絵を担当した上田淳子先生の料理の本が届いた。肉や魚を「塩糖水」という塩と砂糖、水を混ぜ合わせた液に漬け込む調理法を紹介する本だ。塩糖水というのは昔から欧米で用いられている燻製を作るのにつかうソミュール液などを上田先生が家庭用に簡単にしたもの。肉でも魚でも数時間漬け込んで調理するとしっとりとうまく仕上がり、冷凍保存も必要なくなる。ことしのはじめに上田先生のお宅で塩糖水で作ったというハムをいただいたのだが、どこかの専門店で買ってきたのではないかと思うような上等の味だった。フランスで修業を重ねた先生によると、これが本場のハムというものらしい。僕はさっそく自宅でも作ってみたのだが、おいしいハムがこんなに簡単にできるのかとびっくりした。この仕事の依頼があったとき、僕はフランス料理であるから洋ナシやズッキーニ、オリーブなどの食材やフランスの台所で使うような鍋、フライパンなどの静物画を描こうかと思っていた。しかし、編集者の「塩糖水」という化学に用いるような言葉を読者に面白くわかりやすく伝えてほしいという意向によって、豚や魚、鶏などの料理の素材を擬人化した絵本のような挿絵になった。ふだんあまりこうした絵は描かないせいもあるが、どうにも動物たちの表情が滑稽に思えて、描きながらひとりふき出していた。さてさて、できたての本を見ながら、久しぶりに豚もも肉のハムを作ってみよう。

(9月23日水曜日)

上田淳子本挿絵ラフ


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