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第79回往復書簡 足立山(日記と手紙)

 ゴリラ

 千さんが浴室でヒンズースクワットをしていると知って笑った。僕も、コーヒーを落とすのを待つ間、同じことをやっていたから。ほかにも、首や腰をまわす柔軟体操や、足を前後に開いて、腰の筋をのばすストレッチ体操などもやっている。お互い家で仕事をしているから、運動不足が心配でこんなことをやっているのがおかしかった。僕は、通りで信号待ちをしたり、駅で電車を待つ間にやることもあって、「ながら体操」と呼んでいる。貧乏性なのだろう、ぽかりとできた時間を何か有効利用できないかとつい考えてしまうのだ。
 以前、朝起きて顔を洗っているときに、ぎっくり腰をやったことがあった。寝起きは腰が固くなっているのだろう。それからは、洗面台を使うときに膝を折ってかがみ、立ち上がったゴリラのような恰好をすることにした。医者に、こうすると腰に負担が少ないと言われたのだ。シェービングクリームをぬった顔を鏡に映すと、ゴリラから連想して、映画の「猿の惑星」のなかで、主人公の男が猿の傍らで髭を剃っている場面を想い出す。

  コロナ後の旅について

 先日、ある新聞社の記者から、コロナ後に旅はどんなふうに変わると思うか、と聞かれた。それで、旅行業界のこともよく知らないのに、気の利いたことを言おうとSNSとかAIとかについて頭を巡らせてみたが、こちらの方は旅行業界よりもさらに知識が乏しい。まったくさっぱりである。結局お手上げとなり、「僕にはわかりません」と答えて、記者の顔を曇らせてしまった。
 コロナとは関係ないが、最近、昔ながらの日本旅館が少なくなって、ネットが得意な格安ホテルばかり増えるのはつまらないと思う。僕はやはり、小さな時刻表をカバンにつめて、のんびりと各駅停車で駅弁当のおかずを肴にビールなど飲んで、ボンヤリ景色を眺めているような旅が好きだ。行先が決まっていなくとも、かまわない。ころあいで下車して、駅のそばに、庭にほんの体裁程度の松が植えられた小さな旅館を見つけて、「今夜、お部屋は空いていますか。朝食だけでかまわないんですが」なんか言って、泊まる。女将さんが急須と茶菓子、それに前泊地や行先、名前や住所などを記す宿帳をお盆に載せてやってくる。挨拶に天気の話などして、「明日のご朝食は何時になさいますか」などとたずね、風呂場を案内してくれる。そして、昔ながらの飾りタイルの風呂に入り、宿を出て、酒場を探しに出る。酔ってふらふらと宿に戻り、ぱりっとノリのきいた布団とそば殻の枕でぐっすり眠ることができれば、いうことはない。朝食は、めしと味噌汁、鯵の開きに海苔、生たまごだ。めしをおかわりして、沢庵をのせ、熱い茶をかけて二杯目を食う。古いと言われるかもしれないが、それが僕の思う「旅」である。コロナの前も後も、そういう旅をしたい気持ちは変わらない。

(5月24日月曜日)

第79回牧野挿絵旅館の中庭(スケッチ)高崎にて 1999年

       旅館の中庭のスケッチ 高崎にて 1999年

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