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第60回往復書簡 富士山

牧野伊三夫 → 石田千さんへ
 
 さして師走らしいなと思うこともなく年が暮れ、めでたい味のしない正月がいつの間にか終わると、東京の街には、ふたたび緊急事態宣言が発表された。
 まるで、鼻がつまったように、季節に対して鈍感になっている。玉川上水を歩くと、葉を落として寒々しく空に細い枝だけをのばしたコナラの木をアカゲラが餌をさがしてポクポクつついている。ああ、今は、冬なんだなと思った。もともと気忙しいのが苦手な僕は、凸凹もなく時が過ぎていくことが嫌いではない。むしろ、何の目的もなしに旅をしているような気がして、心地よい気もする。
 豆を挽いてコーヒーを淹れようとしたが、なんとなくめんどうになりインスタントの粉にした。絵を描くために午後、明かりを落とした薄暗いアトリエに入る。描き始める前に煙草を一本吸って毛布にくるまりソファに横になって、ストーヴの火にあたりながら、窓の外の日暮れた空をぼんやり眺めていると、そのうちに居眠りをしていた。気づくと乳黄色のくすんだ雲が浮かんだ黄昏どきで、うっすらとあたりが青紫色に染まり、だんだんと暗くなっていく。それをじっと見ている。ああ、絵なんか描くよりも、この景色を見ていた方がずっといい。これが今日の僕の仕事なのだろうと、そのままずっと横になって眺めていた。やがてすっかり日が暮れると、真っ暗な部屋のなかで、昨日、肉屋で新鮮な豚のモツを買ってきたことを思い出す。あれをどうやって調理すべきか。葱と大根、こんにゃくだけの贅沢な塩モツ煮込み。いや、串に刺して七輪でこんがり焼いて、ニンニク味噌で食べるか。酒はどうする。やっぱり、ホッピーだろう。いつの間にかさきほどまでの感傷はどこかへ消え失せて、絵筆に手を触れることもないままアトリエを出る。それから、台所にいる妻のところへ行って、どちらが食べたいかと意見を求めた。
 昨年の秋のおわりに、家の近くの公園から富士山が眺められると知ったので、元旦の朝、拝みに行ってみた。芝生のような雑草の生えた小山があって、そこから畑のむこうの家々の屋根越しに秩父と丹沢の山が連なり、その間に富士が大きく浮かんで見えるのだ。
 富士山は、高校時代に寝台特急で上京の折に、田子の浦あたりではじめて本物を目にしたときはさすがに感動したが、その後は、この山を一体どう思って眺めてよいのかよくわからずにいた。絵を学ぶうちに、広重はじめ、多くの日本の画家たちが描いているのを見ると、通俗的なモティーフではないかと、かえって心がさめるようになっていった。富士宮や御殿場出身の友人たちが、この日本一と言われる山を幼い頃から見て育ったという話など聞くと、うらやましい気もしたが、九州の小倉出身の僕にとっては、やはり自分の郷里の足立山の方がいいと思っていた。
 二十代の半ば頃、実家の玄関の壁に掛けてあった赤富士の日本画を外してゴミ箱に打ち捨て、かわりに自分の足立山の鉛筆デッサンをセロテープで貼って父をひどく怒らせたことがある。おそらくあの絵は、デパートの画商かなにかにすすめられて買った高価なものであったに違いない。外出先から戻った父は、いつもの場所に自慢の絵がないのを見て、
「誰だ!こんなイタズラをする奴は」
 と怒鳴りながら顔を真っ赤にして、まっすぐに僕のところへやってきた。そんな父に対して、生意気ざかりの僕は冷淡だった。
「家から見えもしない富士の絵なんか大事に飾って、恥ずかしくありませんか」
 芸術を解さない父への反発でもあったと思う。しかし結局、あれこれ理屈を言って父の所有物を勝手に捨てた僕の方が悪いということになり、しぶしぶゴミ箱から拾いあげて現状回復をすることになった。
 僕はその頃、セザンヌがサント・ヴィクトワールの景観に自ら美を見出してたびたび描いていたことや、香月泰男が郷里の何の変哲もない山である久原山を愛して描いたことに憧れていた。そのもとは、岡本太郎が『今日の芸術』のなかで、富士山を描くことは「ハの字文化である」とさげすんで語っていたことだった。太郎は、一九五四年に刊行したこの書物のなかで「この惰性的な、実質をぬいた約束事、符牒だけで安心している雰囲気は封建日本の絶望的な形式主義」とまで嘆いている。刊行されてからずいぶんたった一九九〇年代にこの本を読んだ僕は、とても共感していたのだ。
 ところが、それから三十年たったいま、自分が考える芸術とはまったく関係なしに、僕は富士山を見て、ありがたいなと思うようになった。これは、大好きな小津安二郎の松竹映画の最初に富士山が映し出されるのを何度も見たからかもしれないし、銭湯の壁によく描かれているからかもしれない。東京にながく住むうちに、自然と「富士」は身近な存在になっていた。家の浴室の壁にも、阿佐ヶ谷の小杉湯で買った銭湯の複製を貼って毎晩眺めている。海岸の方向からして西伊豆から駿河湾を望んで描いた富士であろうか。ここに描かれているのは現実にはない幻想風景である。丸山清人さんの二〇一〇年の作で、小波の押し寄せる松の砂浜に小舟がふたつ、水平線に淡くかすんでヨットが浮かび、そのむこうに、どんと富士山がそびえている。絵というのは、現実に則していなくてもよい。ゴッホにしても、実際には存在しない教会を山の景色に描き込んだり、自分の都合のよい方向に星空を移して描いた。でも、何故そんなものを描きたくなるのか。そこが大事なところではないかと思う。
 今年の夏で、画家になる決意をして会社を辞めてから、ちょうど三十年になる。浮き沈みの生活のなかで、一体自分は何に向かって、何をやってきたのか。昨年、家にいる時間が多くなり、ふり返って考えてみたが、ただ、そのときどきで気まぐれに描いてきたということしかなく、なんだか淋しくなった。そして、最近は、やみくもに生活のなかに「芸術」などというものを持ち込むのが億劫になってきた。僕なんぞ、もともと俗人にすぎないのであろう。元旦に、富士に手を合わせて拝み、おせちの黒豆をつまんで、ひや酒を飲むのが、なによりのしあわせなのである。正月には小津の映画をかけないと落ち着かない。この正月は「秋日和」を観た。少なくとも、もう百回以上は見ているというのに一向に飽きない。このごろはエキストラの表情や衣装まで気になりはじめた。
 正月二日の書初めは、「まつ」の二文字を書いた。はじめは、少しは自分を奮起させようと「やってみなはれ」と書くつもりだった。しかしなんとなく無理をしてしまいそうでやめて、おとなしいのに変更したのだ。ただそんな気分であったというだけで、何を待つのか、わからずに書いた。今年も東京の片隅のアトリエで、無名の画家のまま、そのかわり自由に絵が描ければ、それでいい。

  (1月10日日曜日)

月金帳60挿し絵


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