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第176回往復書簡 上野、12時30分

石田千 →  牧野伊三夫さんへ

 東京をはなれることになったちーちゃんと、お昼ごはんの約束をした。
 お誕生日が近いので、洋食店に予約をしたとき、ハッピーバースデーのデザートをお願いした。お花やさんにも、ブーケをお願いした。そうして、ささやかなお餞別も用意して、地下鉄に乗って上野へ。
 ここまで書いて、さびしくもたのしい春の昼どきのようだけど、じっさいは、かちかちに緊張をして、マスクを二重にして、かばんには消毒セットをいつもよりたくさん入れている。
 このかちかち、一生つづくの。暗い車窓にうつる、マスクに帽子のおばさんに問う。そうして、母の声を思い出して、ふんばる。いつか、終わる。信じて、歩く。勇み足だから、ずいぶんはやく町にいた。
 ちーちゃんに会うのも、上野の食事、洋食を食べるのも3年ぶり。
 上野には公園のなかの精養軒をはじめ、歴史のある洋食店が点在している。世界じゅうのおいしいものも、なんでもある。地元のかたが大事に通われている喫茶店や食堂もいっぱいある。
 毎週いちどは行かないと、気がすまなかった。それなのに、3年ぶりになったら、すっかりもう、おのぼりさん。
 新入生や新社会人さんのように、晴れやかではなく、びくびくおどおど、見て歩く。和菓子やさん、松坂屋、吉池。緊張とよろこび、トランプの神経衰弱のように、交互にめくっていく。つくだ煮やさんが、なくなって、更地になっていた。
 ちーちゃんとも、食事やお買いもの、数えきれないほど上野で遊んだ。3年、いちども会わず、そのまま、ひんぱんには会えなくなる。
 そう思っていたので、顔を見たとたん、泣いた。
 ……だいじょうぶよ。ふた月に2回くらいは、仕事でこっちにくるから。
 ちーちゃんは、きれいなおかっぱを揺らして、にっこり。そうして、ふたりで、これまでと、これからのことを話す。
 シャンパーニュで乾杯して、白ワインをのみ、洋食のコース料理をいただいた。デザートになると、お店のかたが、記念写真を撮影してくれた。まだ外でスマホが使えないので、ちーちゃんのスマホで撮影していただいた。
ちーちゃん、お店のかたがた、たのしい時間を、ありがとうございました。
 ほろ酔いで帰宅して、さまざま除菌消毒をして、ベランダをながめる。
 ずいぶんまえの誕生日に、ちーちゃんからいただいた鉢うえ、まえのアパートにいたころは20センチくらいだった。この部屋に越して、室内からベランダにうつしたら、みるみるのびて、ベランダの手すりを越えた。名まえがわからないので、ちーちゃんの葉っぱと呼んでいた。ここに越してからは、ちーちゃんの木になった。
 毎日おはようと声をかけ、ゆうらり揺れて、こたえてくれる。

  行く春の待ちあわせかな広小路  金町
  (4月14日金曜日)

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