『ほねがらみ』と偶像

はじめに

 これは芦花公園『ほねがらみー某所怪談レポートー』に関する若干の考察である。盛大なネタバレを含むので、未読の方は、まずは是非カクヨムに掲載されている本編を読んでいただきたい。

『ほねがらみー某所怪談レポートー』カクヨム

 また、考察と言っても全くもって不十分なものでしかなく、『ほねがらみ』という作品にちりばめられている謎のほんの一部について私見を記したに過ぎないものでしかないということをご了承願いたい。特に、私はいわゆるホラー小説というものを全く読まないので、ホラーというジャンルの約束事について何も知らず、そのために見当違いな読み方をしてしまっている可能性がある。そして、言うまでもなくこの考察は私個人の意見でしかなく、作者の意図を反映したものになっている保証はない。諸々、ご理解いただいた上でご笑覧願えれば幸いである。


暴走する「システム」

 かつてこの国が戦争に負けたとき、軍人や政治家は口を揃えて、「私は戦争には反対だったが、当時はそんなことを言える空気ではなかった」と主張した。「朕茲ニ戦ヲ宣ス」との詔を出した当人でさえ、戦争の責任を取ろうとはしなかった。

 天皇も政治家も軍人も、誰一人として戦争をしたがっているものなどいなかったにもかかわらず、勝てるはずのない戦争が始まり、負けるにしてももう少しマシな負け方もあったであろうに、沖縄が蹂躙され、2発の原爆が落とされ、ソ連の侵攻を許してようやく「ご聖断」が下るという目もあてられない惨状が出来したのである。天皇も政治家も軍人も戦争を望んでいなかったというなら、これは一体、誰の仕業だったのか。

 このような責任者の不在を、丸山眞男は「無限責任」という言葉で説明しようとした。戦争を望んだのは天皇ではなく、日本国民全体であるという論理(一億総懺悔)によって、天皇個人の責任は曖昧にされた。全ての日本人に責任があるというのは、実質的には誰にも責任がないことを意味する。「無限責任」は巨大な「無責任」へと容易に転落する。

 丸山はこれを日本に特有の病理と考えたようだが、果たしてそうであったか。

 そこに自己正当化のニュアンスが全く無いとは言えないにせよ、「自分には戦争を止める力などなかった」というのは本心であっただろうと私は思う。戦争を始めたのは個人ではなく、個人の意志を超えた「システム」だからである。たとえば東條英機が断固として開戦に反対していたとして、何かが変わったわけではないであろうというのも、あるいは間違いのないことだったのではあるまいか。

 動き出してしまったシステムは、個人の力では止められない。個人にできるのは、せいぜい上司に無断で難民のためにビザを発給するくらいのことである。

 そして、動き出してしまったシステムを個人の力では止められないという意味では、日本と他国でそれほど大きな違いがあるとも思われない。そのシステムは戦前・戦中の日本では「天皇制」と呼ばれていたが、同じ時代のドイツにはまた別な呼び名のシステムが存在していたし、それが個人の力で制御し得ないものであったという意味では日本とそれ以外の国とで大きな違いは無いように思われる。

 仮にアイヒマンがこの上なく高潔な人物であったとしても、ホロコーストを止めることなど不可能であったに違いない(だからアイヒマンに責任がない、と言いたいのではないがそこは今は問題ではない)。かといって、ヒトラーただ一人の意思でホロコーストが遂行されたわけでもない。ホロコーストは、ヒトラー個人がやったことでも、100万人のアイヒマンがやったことでもなく、ナチス・ドイツという、高度な官僚機構に支えられたシステムがあって初めて実現されうることなのだ。

 人間を支配するのは常に人間であるとは限らない。人間はしばしば、システムによって支配され、ときには嬉々としてシステムに隷従する。人格を持たないシステムによる支配を、ハンナ・アーレントは次のように論じる。

古代人が家族の組織的仕組みであると述べていた一人支配(ワンマン・ルール)は、社会においては、一種の無人支配(ノーマン・ルール)に変貌する。[中略]しかし、この無人支配は、その人格的要素を失っているからといって、支配を止めたのではない。統治の最も社会的な形式は官僚制である。したがって、慈悲深い専制主義と絶対主義における一人支配が国民国家の最初の段階だとすれば、官僚制はその最後の統治段階である。ここから知られるように、無人支配は必ずしも無支配(ノー・ルール)ではない。実際、それはある環境のもとでは、最も無慈悲で、最も暴君的な支配の一つとなる場合さえある。(アーレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫)

 アーレントがここで、「最も無慈悲で、最も暴君的な支配」と言うとき、彼女が念頭に置いてるのはナチス・ドイツやスターリン支配下のソ連であると考えてまず間違いないだろう。しばしば、日本と違って過去の戦争責任と向き合っていると評されるけれども(ある部分ではそれも間違いないとも思うのだが)、人間の作り出したシステムとしての「無人支配」が、人間の手を離れて暴走したとき、人間はそれを制御できなくなるという事情は、どこの国でもあまり変わらないのではあるまいか。

 アーレントは、「全体主義においては指導者も交換可能である」とも述べている。ヒトラーにせよ裕仁天皇にせよ、システムにとってはそれを構成する要素のひとつ、せいぜい最も重要な部品でしかなく、システムを動かす主体ではない(繰り返すが、だからヒトラーや天皇に責任が無いという話ではない。それはまた全然違う話である)。


名前を持たない神と偶像崇拝

 よく知られているように、ユダヤの神は偶像礼拝を禁じている。ユダヤ教から派生したキリスト教は、しばしばこの禁を無視するが、プロテスタンティズムは比較的、偶像礼拝的な要素を排することが多い。しかしなぜ、偶像を崇拝してはいけないのか。エーリッヒ・フロムは次のように述べる。

偶像は、母なる大地へ帰りたいという欲求や、所有、権力、名声等々に対する熱望といった人間の中心的な熱情の対象となるものである。偶像にあらわされるような熱情は、同時にまた、人間の価値体系の中の最高の価値をあらわす。[中略]人間は自らの熱情と性質を偶像に移入する。だから人間が自らを貧困化すればするほど、偶像の方はより偉大になり強力になる。偶像は、疎外されたかたちにおける人間の自己経験である。偶像を拝することにおいて人間は自己を拝する。けれどもこの自己は、知性、肉体的力、権力、名声といった人間の部分的限定的側面にすぎない。自分自身を自己の一部と同視することによって、人間は、自己をその面だけに限定する。(エーリッヒ・フロム『自由であるということ―旧約聖書を読む』飯坂良明訳、河出書房新社)

 フロムのこの説明はわかりやすいとは言えないが、言ってることは難しくない。

 現代社会における最も強大な偶像は、やはり金であろうか。金は、それ自体としては何の価値もないにもかかわらず、誰もがそれに価値があると思っているし、「拝金主義」という言葉があるように、少なからぬ人間にとって金は崇拝の対象である。すなわち、金は偶像である。

 本来、人間には無数の欲望があり、金銭に対する欲望は一人の人間の中に無数にある欲望のうちのひとつでしかない。にも関わらず、多くの人が金銭に対する欲望を自分のなかに無数にある欲望の中で最も重要なもの、あるいは唯一のものと定義している。フロムのいう「自分自身を自己の一部と同視することによって、人間は、自己をその面だけに限定する」とはこの意味である。金に対する欲望という「自己の一部」を、「自分自身(の全て)」と同視することによって、「自己をその面だけに限定する」のである。

 しかし、金を崇拝することは、金に対する欲望以外の欲望を抑圧して生きることでもある。それはつまり、価値判断の基準が金だけになるということである。人間には金に対する欲望以外にも、たとえば賢くありたいという欲望があり得るのだが、金を崇拝する人物は賢くあることを金を得るという目的のための手段と位置付ける。賢さの価値は、金という物差しで測られる道具の位置に貶められる。

 そのような人物にとって、他者を評価する基準は、畢竟自分にどれだけ金を運んでくれるかであり、翻って、自己自身の価値もまた、金という物差しでしか評価することができなくなる、ということでもある。他者を金で評価する一方で、自己に対する評価だけは全く違う物差しを当てはめるというような芸当は、どれほど利己的な人間にも不可能である。彼は金を崇拝することで、金以外の価値を否定してしまったのだから。フロムのいう「偶像は、疎外されたかたちにおける人間の自己経験である」というのはおおよそこのような意味であろう。人間が偶像を崇拝することで自らを疎外し、貧困化するほどに、偶像は強大になる。拝金主義者が自己を疎外すればするほど、本来単なる記号でしかないはずの金は、実体を持った何かであるように振る舞い、ますます人間を支配する力を増していくのである。

 昭和天皇は、それなりに優秀で責任感もあったにせよごく平凡な君主でしかなく、指導者として卓越したカリスマ性があったとは言い難い。けれども、「天皇制」というシステムを考えるときに、天皇個人の資質はあまり重要な問題にはならない。天皇が崇拝されてさえいれば、天皇制はシステムとして自律し、それ自体の論理を持って動き出すのである。崇拝されているのは天皇という記号、すなわち偶像としての天皇であって、ヒロヒトという個人ではない。日本銀行券の紙質とかデザインが、金としての価値になんら影響を与えないのと同じことである。

 偶像崇拝はこうして、それ自体としては何の意味も価値もない記号に意味や価値を付与し、そこを起点としたシステムを作り上げ、人間を束縛し、疎外する。ユダヤの神が偶像崇拝を禁じたのは、このような記号に隷従する生から、人間を解放するためである。

 ユダヤの神は名前を持たない。ヤハウェとかエホバと発音される呼称は、「在って在るもの」という意味の語であって名前ではない。そして、その「在って在るもの」という呼称でさえ、「みだりに唱えてはならない」とされている。これは、ユダヤの神を偶像としないためである。偶像から自由になるためには、人間が名前を呼んで理解できる記号ではない、超越的な存在に服従しなければならない。古代ユダヤ人はそれを「自由」と定義した。


偶像・記号・システムとしての「なかし」

 偶像崇拝とは、単なる記号でしかないものに自律的な意味や価値を付与し、そこを起点としたシステムを構築する営みである。そのようにして作り出されたシステムは、作った人間の意思を超えて暴走し、人間を脅かす存在となる。

 『ほねがらみ』に語られる「なかし」も、そのようなシステムのひとつである。「なかし」は富をもたらすシステムとして人間が作った。しかし、一度人間の手を離れて動き出してしまったシステムはもはや人間には制御できない。今や「なかし」は富をもたらすという効能さえ失い、ひたすら生贄を要求するだけの存在であり、人間にとっては単に有害であるだけの存在であるにもかかわらず、何故か人は「なかし」に嬉々として恭順する。

 「なかし」はなぜこれほど恐ろしいのか。

 おそらく、「なかし」を強大ならしめている最大の要因は、人々が怪異を、そして神を信じていないことである。

 全体の語り手である「私」も、「正直なところ、木村さんには申し訳ないが私はホラー好きでありながらそういった類のものを完全には信じていないのである。(「幕間①」)」とか、「そもそもこの話も霊的な現象よりも由美子さんという女性キャラクターのサイコっぷりの方が恐ろしかった。こういう一方的な性格の厄介な女性はどこにでもいるものだ。そういう女性への忌避感がうまく表現されたキャラクターだと思った。(同前)」というように、怪異を心からは信じていない。有り体に言ってしまえば、怪異を甘くみている。

 さらに、この作品では神の不在が強調される。

「あんたも今は暇やろう。少し付き合って……ほいで、あんた、本当に神様はおると思うか」

[中略]

本心を言えば信じたことはなかった。
 クリスマスを祝い、正月には初詣に行き、葬式は寺でやる。わたしはそういう典型的、無宗教の人間だった。
「そうですね、お祈りは、たまにしますよ」
 わたしはようやく、曖昧な答えを絞り出した。
「私はおらんと思うんよ」
 恐ろしく静かな声でTさんは言った。なんでもない言葉なのに、心がざらざらと毛羽立った。
「私はおらんと思う。ほいでも、ひとみごくういうんは、あった。ほいで、何人もおらんようになった。ひとみごくうがご飯いうなら、ほんで神様もおらんなら、ひとみごくうは誰のごはんやと思う?」

[中略]

「ひとがひとを食べるんよ。ひとみごくういうんは、ひとのごはんなんよ」

(「見」)

 この場面でTさんが語るのは、神は存在しないが「ひとみごくう」というシステムは存在していたし、それは「ひとがひとを食べる」ものなのだという世界観である。けれども、これは論理の転倒であろう。「ひとみごくう」のようなシステムに対抗するために、人は神を信じたのである。人の作った記号に人が隷従し、自らを害するような事態に抵抗するために、名前の無い神を求めたのである。神が存在するかどうかが問題なのではなく、神を信じるかどうかが問題なのだ。しかし、このような宗教観が日本人に理解されたことはほとんどない。

 遠藤周作の『沈黙』も、日本人の此岸的な宗教観にキリスト教が敗北する物語であった。『沈黙』に登場するキリシタンたちは悲壮な殉教を遂げていくけれども、それはキリスト教の神のためではなく、太陽神としての「大日」のためであり(太陽を神とみなすのはつまるところ偶像崇拝の変種である)、さらにいえば、「パードレ」、セバスチャン・ロドリゴその人のためである。日本のキリシタンは偶像から自由であったことはないし、そのような自由を求めたこともなかった。

 このような文化的土壌において、偶像としての「なかし」から人が救済される術は存在しない。


拡散される「なかし」

 「なかし」について、『ほねがらみ』のなかでは一見矛盾した言説が繰り広げられる。「気づかなければならない」という言説と、「知ってはならない」という言説だ。

 「語」の8月13日では雅臣が「ヒントを沢山与えたのに気付けなかった馬鹿はどうなると思う?」と言っているし、水谷も「私」にヒントを与えようとしていた、とされる。こういったところに注目すると、「なかし」の正体には気づかなければいけない、というように読める。

 一方で、たとえば「見」にある「聞いて、理解してはいかん。聞こえるだけや。これは何の意味も持たん、こけ脅しや。今はね」という「Mさん」のセリフや、「猫のおばちゃん」の「シルナ」というメッセージにあるように、「なかし」について理解することが忌避されるような記述も見られる。

 結局のところ「なかし」について知るべきなのか、知ってはならないのか。

 映画、『帰ってきたヒトラー』は、ヒトラーが帰ってきたことに気付かなかった人々の喜劇であり悲劇だった。「ヒトラーのそっくりさん」というコンテンツを面白がっていただけのつもりでいた人々は、知らず知らずのうちにヒトラーの復活に加担してしまうのである。

 彼らがヒトラーを復活させてしまったのは、それがヒトラーそのものであることに気づかなかったからである。そして、それがヒトラーであることを知ってしまった、つまり、それをヒトラーであると認識し、ヒトラーについて語ってしまったからである。

 「知る」ことは「識る」ことであり、定義することである。記号は人間によって定義されることで、意味を与えられる。ヒトラーを名乗るヒトラーによく似た風貌の人物は、他者がそれを「ヒトラー」であると定義することによって「ヒトラー」として存在するようになる。誰かが最初に彼を「自分をヒトラーだと思い込んでる精神異常者」として定義すれば、ヒトラーの復活は避けられたかもしれない。

 「ヒトラーによく似た男」という記号は、人々がそれを「ヒトラー」と定義したことによってヒトラーそのものになった。「なかし」もまた、そのようにして「復活」したのである。

 「なかし」は、それ自体としては単なる記号である。人間がそれを「なかし」と定義することで、はじめてそれは「なかし」として存在するようになる。「なかし」が「なかし」であることが知られなければ、そのように定義する人間がいなければ、「なかし」は存在することができない。だから、語り手の「私」はそれが「なかし」であることに気づかねばならなかったし(気づかなければ避けようがない)、同時にそれが「なかし」であることを知っては(認識しては)いけなかったのだ。

 「なかし」の存在が認識され、「なかし」について語られることで、「なかし」の存在はより確かなものになる。偶像・記号である「なかし」が実体を持つようになる。天皇制とか民族とか共産主義とかいう抽象概念は、具体的なモノとしてはどこにも存在していないけれど、人間がそれらを認識し、定義することで、それらは存在していることになる。そして、人がそれについて語ることで、それの存在はより確かなものとなる。だから「なかし」は、『拡散しなさい』と命じるのだ。「なかし」の存在が認知され、「なかし」について語るものが増えれば増えるほど、「なかし」の存在は強固になり、その力は強大になり、ますます人間の手には負えない怪異として君臨するのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?