夏の夜に桜の精と

 桜の下には死体が埋まっている。そんな話をどこかで聞いたこともある。民家の庭に植えられた桜の枝が張り出して、屈まなければ通れないような歩道がこの前まであった。今はもうその民家は取り壊されて、噂では駐車場に変わるそうだ。瓦礫が残る空き地にその桜の切り株が居座り、そこに庭があったことを知らせていた。すぐ横にユンボが置き去りにされたように止まっていた。
 僕が通りがかったのは平日の夜で、コンビニ帰りでアイスとオニギリが入った袋を提げていた。あと一時間もすれば深夜の時間で、だから街灯に照らされた彼女の姿を目の端で捉えたとき、僕は幽霊や物の怪を見たのかと思ってどきりとした。彼女は取り壊し途中の敷地内にいて、ユンボにもたれかかって佇んでいた。二十代半ば辺りだろうか、手にチューハイの缶を持っていた。
 敷地のそばには「工事中」のステッカーを貼られたカラーコーン、「立ち入り禁止」の札が下がった黄色いハードルのようなアレも立ててある。彼女はこの場所に思い入れのある誰かなのか、それともただ単に勝手に入り込んだ酔っ払いなのか。どう判断したらいいのかと悩んで立ち止まっていると、彼女は僕に気づいてのんびりとした仕草で会釈をした。特に悪びれた態度でもなかったので、関係者である可能性のほうが高そうだなと思った。僕も会釈を返し、そのまま立ち去ってもよかったのだが、そのときにはもう多少なりとも興味を抱いてしまっていて、「ここに住んでいた人ですか?」と気軽さを装って聞いた。
「う……ん?」
 彼女は桜の切り株に目を落とし、
「住んでたって言うか……、埋まってた、かな」
 のんびりと答えて、酔っ払いらしい含み笑いをもらした。
「ああ、桜の木の下に、ですね」
 まだ深夜ではないのはわかっていたが、もうすぐ深夜だということを理由にして僕はそう話を合わせた。
「そう。桜の木の根っこに、ずーっと養分吸われててね。もう何十年も土の中にいたんだよ。出れなくってさ、まあそれはそれでよかったんだけど」
「あの桜の木、切られたんですね」
「うん。それで私はようやく出られたんだ。ま、土の中も居心地はよかったんだけどね」
 彼女はそう言って笑い、ゆるゆると缶チューハイを持ち上げて口をつけた。喉を鳴らす。その一連の動作は気だるそうで、いささか年老いても見え、何十年も土の中にいたという彼女の言葉にいくらかの説得力を与えていた。もちろん彼女の服にも肌にも土の汚れは見て取れなかった。
「ここの桜って、枝が張り出してて通るとき邪魔だったんですが、なくなってみるとさみしいもんですね」
 僕のひとり言のような言葉に、彼女は「ははっ」と乾いた笑い声を上げた。それから僕のほうを向いて、ニカッと笑い直した。
「ま、そんなもんだよ」
 彼女はすっと、缶チューハイを持った手を桜の切り株のほうに伸ばした。三本の指でだらしなく持っていた缶チューハイを、やる気なさそうに一度だけ揺らす。
「……乾杯?」
 僕がそう聞くと、彼女は唇の端と喉で、笑んだことを知らせた。
「そう、乾杯だね」
「桜の精と?」
「桜の精と」
 彼女はそう言って、今度は僕のほうに缶チューハイを向けた。僕は一瞬、内心でうろたえたのだが、すぐにコンビニ袋の中からガリガリ君を取り出し、それを彼女に見せつける。
「乾杯」
「乾杯」
 ガリガリ君のパッケージを開けるパリッという音を聞いてから、彼女はまた缶チューハイに口をつけて傾けた。僕は飲み物を買ってこなかったことを反省しながらガリガリ君を齧った。冷たく甘い。


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