梨を剥く話

 頬に当てられた剃刀を連想する。よく磨かれたナイフは鋭く、するすると梨を剥いていく。人差し指と小指でナイフを押さえ、曲げた薬指で梨を支え、親指と中指で梨を回す。バランスを取るために指はときどき役割を替えるが、その動きに淀みはない。彼女の指の動きはしなやかで、つい見とれてしまうことがある。
 残暑が続いていたけれど、ようやく秋らしくなった。彼女と初めて会ったのは冬のことで、それから今までの年月を数えて、思わず呆れたような笑みが漏れる。友人と一緒に行ったツアー旅行で知り合った。そういう目的ではない旅だったので、未だ彼女がそばにいることが何となく不思議な感じもする。その場限りの話し相手だと思っていた。
「むかーしね、小学校のころ、トランプがうまい男の子がいたんだ」
 剥き終えた梨をまな板に置き、二つに割る。
「手品もやったけど、何かディーラーみたいなのをずっとやってた。トランプ切るのがやたらうまくて。パラパラパラって感じの」
 四つに割る。
「小学生でそんなことできる子ってあんまりいないじゃない? だから、けっこうずっと見てた気がする」
「パラパラパラってのは確かにできないすね」
 僕は軽く口を挟む。
「そうでしょう?」
 彼女はちらりとこっちを見て頷いた。
「でも、美絵さんはできるんじゃない? 左手と胸でこうやって」
 僕は自分の胸の前で架空のトランプをパラパラとやった。
 彼女には右腕がない。正確には右腕の肘から先がない。ときどき僕は彼女の右腕について難しいことを考えてしまい、そのたび少し苦い気持ちになる。悩んでいると彼女にからかわれることもある。彼女が右腕をなくしたのは、僕と知り合うずっと前のことだ。
「君ね、セクハラだよ」
 彼女は呆れ顔。僕は彼女の胸の辺りをじっと見つめる。そこには自己主張の激しいおっぱいがあって、素敵なことにとても柔らかい。
「揉みたいです」
 彼女はきゅっと目を細め、手にしていたナイフを投げる。仕草をする。反射的に僕は避けるが、ナイフはいつの間にかまな板の上に置かれている。器用な人だ。
「へへへ」
 得意げに笑う彼女は、再びナイフを手に取り、梨の芯を切り落としていく。一つの梨を八つに切り刻むと、それを皿に載せて僕の前に持ってくる。二つ摘んで僕と自分の口に放り込む。シャリシャリという歯応え。果汁の甘さが口の中に広がり、水気の多さに何故か、秋だなぁという感想を抱いた。
「美味しい?」
「うん」
「食べ物与えてると幸せそうだね、君は」
 僕は顔を上げ、真剣な眼差しを意識して彼女の顔を見つめた。
「美絵さんの豊かな胸がそこにあるだけで僕は幸せなのですよ」
「……何で君はセクハラばかり言うのかねえ」
 そう言いながらも彼女は、僕の後頭部に左手を滑り込ませ、ぐいっと引き寄せる。けっこう力強い。顔が柔らかくて温かいものに埋まる。
「これでいい?」
「……はい」
 僕は彼女の背中に腕を回した。
「幸せ?」
「もちろん」
 腕に力を込める。
 幸せです、もちろん。それで、美絵さんも幸せならいいなと思うのです。

#幻肢

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