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「そういうおまえはどうなんだ?!」

小さいとき、

手を振りほどいて走る娘を制止し、
「危ない!走ったら車にぶつかるよ?大変😱!だいじな娘ちゃんがケガしちゃう!」
って日々繰り返していた。

そしたら4歳になったころ
「まって!」に止まってくれた。
わたしはびっくりして、

「待っててくれたの?」ってきいたら、

「だってね、だいじな娘ちゃんひかれちゃうからね( ・`д・´)」

「そう!そうなんよ!よかった😭これでだいじな娘ちゃん轢かれなくて済むわ😭」

得意気にいう娘を抱き締めて、
私はちょっと泣きながら娘と手をつないでスキップして帰った。

あのとき。

ずーっとずーっと無視されてると思ってた私の言葉は、
実は娘の内部に蓄積され
「とまらないと危ない」への理解、
「とまることができる」というスキルを持ってはじめて発動され、

そこでようやく、
「娘が娘を守ることができる」のだと知った。

そして、
私が「危ない!」というたらきかないといけないのはなぜか?
→娘ちゃんが大事だから。大事な娘ちゃんがケガしたら悲しいから。

というメッセージ。

これが、1本の線で繋がった事実に、
体がふるえるほど感動した。


こどもは大人をよくみている。

いくら「あなたが大事だから」って繰り返しても、
日々私が娘を大事にしていなかったら、
彼女自身を尊重してなかったら、

「ああ、そうなんだ、やめよう」って、自主的に彼女がとまることはなかったと思う。

「こどもを注意する」は、本来、

その子を守るためにするものだ。


だが、「私が大事だからこの人はこれをいうんだ」を、本質的に理解しようとおもったら、


大人側が「相手を大事にする」から逃げてはいけない、というか、にげられない。


「こどもがみている」のは、

「自分とかあちゃん」だけではない。


むしろ、うちなら、

私が兄たちや夫に関わっている姿を、

娘はいつもみている。


そして、

「かあちゃんはああいうが、かあちゃんは自分を大事にしてるんだろうか?」も、実によくみてる。


だから、「ねころんですまほみたらめがわるくなるよ」と、注意してくれるのだ。


私のことが大事だから。


そう。

だから、にげられない。



「こどもを育てる」ということは、


なにか言葉を発するたびに、

「そういうおまえはどうなんだ!?」を、

つきつけられることだとおもう。


だから、

時に自分の言葉で自分の首がぎゅっと閉まる。


こどもの目はまっすぐに問う。

「そういうおまえは自分を大事にしているのか?」


十数年前、転職して学童の先生にはじめてなったとき、一番戸惑ったのはそれだった。


普通の接客業なら

「接客モードに切り替え」て、

仕事中だけ別人格でいればいい。


「接客モード」の私はニコニコして親切でそうそう傷つくことはない。


だが、こどもはどうだ。


「そういうおまえはどうなんだ!」を毎日毎日つきつけてくる。


ごまかしはきかない。

毎日めちゃくちゃ傷つく。


自分の言動のすべてに責任が乗る逃げられなさに、

わりとバカ正直に生きてきたと思ってた自分のごまかしが発露され、


「ああ、これは楽ではないな」と思ったのを、

わりと鮮明に覚えてる。



それでもわたしがずっと、

途切れながらも保育の仕事を選んでるのは、

三人もこどもを産み育てているのは、


おそらくはその「にげられない苦しさ」も込みで、

「こどもが成長する瞬間に立ち会うことができる」のが、

結局とても大好きだからだ。


「言動に根拠と責任を持って生きる」のは

本当に骨が折れる。


だけど、

こどもたちのあの顔。


「できた!」「わかった!」というあの顔。

積み重ねてきたことが、

一気に繋がり開花するときのあのキラキラした顔。


あれが見れるから。


私は今日も、こどもに関わって生きてるんだとおもう。


おわり



追記

久しぶりにブログにできた記念にいつものを貼る。
「自分を大切にする、とはどういうことか」が、降り積もった自責の念で見えなくなってるとき、これをきくと霧が晴れるよ。Audibleなら無料やしぜひ(´ω`*)

「草薙龍瞬  反応しない練習」

あと、「人と人が大切にしあうとは何か?」を、描いてある大好きな3月のライオンも貼るね😆
9月に最新刊でたね✨

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