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書評 パオロ・ダンジェロ『風景の哲学 芸術・環境・共同体』

本稿は3月の上旬に執筆された。時期的には東日本大震災から9年が経とうとする、ちょうどその頃である。当初、私は被災地の風景を論じる手立てとして、本書を手にとった。しかし、ご存知の通り、それから事態は一転してしまった。風景という観点からすれば、いまや人々の関心は被災地ではなく、パリやニューヨークのように無人となった大都市へと向けられている。こうした別種の風景を前にして、コロナ禍における風景とは何か、このような問いをいまであれば立てることができるかもしれない。けれど、本稿ではそちらへ行くまえに、ひとまずは著者パオロ・ダンジェロが整理する風景論の歴史をたどることで、その議論の土台を築くところから始めてみたい。以下、書評である。

パオロ・ダンジェロ『風景の哲学 芸術・環境・共同体』(鯖江秀樹訳、水声社、2020年)
http://www.suiseisha.net/blog/?p=12182

芸術全般、とりわけ現代美術において、2010年代を象徴するキーワードはおそらく環境と共同体である。地球温暖化をはじめとする環境変動はグレタ・トゥンベリの演説を待たずとも、膨大な移動によって成り立つグローバル・アートを取り巻く労働環境や活動形態、そして作品内容に深く関与してきた。共同体はコレクティブという名で流通し、次回のドクメンタのキュレーターにジャカルタのコレクティブ「ルアンルパ」が選出され、昨年のターナー賞ではノミニーの総意でコレクティブでの受賞となった。そうした近年の動向に対して、少し離れた地点、すなわち「風景論」から接近するのが、美学者パオロ・ダンジェロの『風景の哲学』(原書は2010年出版)である。

著者のダンジェロは、かのアントニオ・ネグリ、ウンベルト・エーコ、ジョルジョ・アガンベンらの一回り下の世代にあたる、イタリアの美学者である。学生時代には近代保存・修復学の祖チェーザレ・ブランディの薫陶を受け、現在はローマ第三大学で教鞭を執っている。その研究領域はオーソドックスな美学史から風景論に関わるものまで、多岐にわたるが、主に3つの系統に分けることができる。19世紀以降の近代美学・芸術論、古代から現代に至る西欧の思想史研究、自然と美学との関係性についての考察。『風景の哲学』は言うまでもなく3つ目の系統に属する研究書である。全9章で構成される本書は、順に風景の美学の成立、映画の捉える風景、現代美術における風景、環境美学、風景に関するイタリアの法制史、そして新しい風景としての「耕作地」まで、こちらも幅広い論点に及んでいる。とはいえ、翻訳に際して付け加えられた副題が本書を読み解くための指針を示してくれる。先述した通り、現代美術のトレンドとも呼応する、芸術、環境、共同体である。したがって、本稿では風景とそれぞれとの関係に論点を絞ることで、本書の特色を明らかにしていきたい。(第2章における「地理映画」の分析は映画批評としても興味深いが、本稿では割愛する。)

よく知られる通り、風景を意味する「Landscape」とはもともと風景画または風景的なイメージを指す概念として生まれた。オスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」というパラドキシカルな言葉が象徴するように、自然の風景は風景の絵画的表象を通して発見され、絵画的な美として認識されてきた。ここで、論点を先取りすれば、この風景画モデルには欠点が存在する。たとえば、人が労働をする「耕作地」のように日常的な風景を扱えない(第9章)。なぜなら、絵画における美=自然美の等式では、非日常的で例外的な場所こそが風景として認識され、かつ、用の空間は美とは区別されてしまうからだ。試しに、ランドアートの舞台を想像してみてもいいだろう。砂漠、荒野、草原。美術館の外を求めた美術家たちが選んだ場所も、あくまでも無人地帯であって、人間の労働や生活の場所ではなかった。美的でも崇高でもない場所として、耕作地はこれまで風景論から語り落とされてきたのだ。

こうした風景画から始める風景論を議論のベースとして、それに代わる新しい学識が1970〜80年代に勃興した(第4-5章)。英米を中心に展開された分析美学の一派、環境美学である。その代表的な論客のひとり、アレン・カールソンは風景を評価するためには、芸術にかわる科学的カテゴリーに基づく「自然環境モデル」が必要だと説く。要は絵画の美を認識するためには美術史の知識が必要なように、環境に対しても自然科学の知識が正しい理解を促すということだ。お気付きのとおり、風景は環境と言い換えられ、環境を認識するためには、芸術としてでもなく、自然科学のカテゴリーのなかに位置付けられなければならないのだ。すぐさまに、ではどこまで自然科学に精通すれば、環境を理解できるのかという常識と専門知識間の程度問題が提起される。けれど、ダンジェロがより本質的な批判として投げかけるのは、多くの場合に環境美学が環境保護を訴えるエコロジーの立場から前提とするよき環境=美しい自然の等式の正当性の方である(第6章)。『雰囲気の美学』で知られる哲学者ゲルノート・ベーメが指摘するように、一見して美しくも、実は見えない放射能で満たされた場所において、その等式は成立しえないからだ。ダンジェロによれば、こうした「例外状態」に道徳的な動機をもつ環境美学は答えを用意できていない。さらには、環境美学が風景の環境への還元だとすれば、これまで美学のなかで提起された様々なモデルもまた同様に風景をなにか別の秩序に還元することで、風景ではない何かについて論じてしまっていた。この点から、ダンジェロは風景の美学が他律的にならざるを得ない構造的な欠陥を炙り出している。

以上、風景と芸術、風景と環境、これら先行する議論では、一方では耕作地、他方では目に見えない汚染地が風景論から排除されていたことが確認された。期せずして、ダンジェロが何気なく挙げた、二つの具体例は日本の読者にあの「風景」を否が応でも想起させる。言ってみれば、そうした風景を語るために、ダンジェロは既存の風景論の不備を指摘し、風景の哲学を復興しようとしているのだ、と考えてみてもいいかもしれない。

そのダンジェロが被災地の風景に言及している箇所がある(第3章)。ランドアートが写真という複製メディアを必要とし、自然の風景の経験を与えない点を批判する文脈で挙げられた《ジベリーナの亀裂》である。街全体がセメントで覆われた巨大な現代美術作品であり、一種のモニュメント。これは1968年の地震で住民が退去し、廃墟となったジベリーナの旧市街地に建設されたアルベルト・ブッリの作品である。たしかに実見したダンジェロが描写する現場の風景は黙示録的な悲劇性と奇妙にも共存する多幸感に包まれており、ブッリの亀裂作品のランドアート版ぐらいにしか認識していなかった私自身にとってもその白昼夢のような風景は印象的であった。だが、こうしたダンジェロの自然イメージ批判という意図とは別に、その「亀裂」はある問い掛けを発しているように思われる。震災を機に街の風景そのものを一変させたジベリーナは、住まう人間がいなくなったにもかかわらず、美術家の手によるひとつの作品として観られる。とすれば、その風景は一体だれのものか?と。本書の後半部において、ダンジェロは風景をアイデンティティの担い手として捉えることで、多様な主体の集う「共同体」論へと向かうことになる。

ダンジェロはイタリアの風景保護に関わる法制史を丁寧に振り返るなかで、風景が芸術から生態系、そして共同体の保護へと定義を拡大させながら、複合的な意味を有するようになった経緯を記している(第7章)。これまで、絵画と結びつく自然美に適う風景に保護の範囲を限定していたところ、「風景についてのヨーロッパ協定(2000年)」では風景が環境のような客観的な現象と心象のような主観的な現象の相互作用から形づけられると考えられ、風景の中に共同体のアイデンティティの基礎が見出されるようになる。風景の捉え方の変化に伴って、法における風景の定義も変遷してきたのだ。そのなかで、ダンジェロは最新の「文化財および風景法規(2008年版)」で明記される、ナショナル・アイデンティティの可視的・物質的表象として風景を保護するという条文に対してははっきりと違和感を表明している(第8章)。というのも、彼は国家の枠に属さない人々にとっても、ある風景はアイデンティティの場となると考えるからだ。とりわけ、その多様性を担保するのが、元からそこに暮らす地元住民ではなく、他所からやってきた「余所者=Outsiders」である。イタリアの景観保護を積極的に求めてきたのが、彼らの方であることは想像に難くないだろう。この余所者をふくめた風景との接触者が、個別のアイデンティティを確立する豊かな場として、風景は想定されるべきなのだ。

私事になるが、二年前から集団で群れとなって旅行し、その経験をもとに執筆した批評をまとめる雑誌「ロカスト」に参加している。本書を読んで、第2号の西東京特集の際に、私の地元である福生をほかの参加者と「旅行」したときの感覚を思い出した。米軍基地沿いの国道16号を歩いていると、ある人は生まれ故郷のサンフランシスコ、ある人は留学したトロントの風景のようだと語り始めた。そもそも日本のものでもないような風景が、また別の風景へと連想的に移り変わっていく。いわば、それは地元民である私の風景が、他者が経験した他国のある風景との重なり合いによって、書き換えられていくプロセスであった。この風景は誰のものなのか?とダンジェロ風に問うてみれば、それは私個人のものでもなく、第三者のものでもないだろう。まぎれもなく、旅行した人間=群れの風景としか言いようがない何かである。ダンジェロが示唆するように、風景とは旅行者=余所者を含む複合的なアイデンティティの担い手となる。だからこそ、私は「ロカスト」を通して、ひとつの想像の共同体を仮設しえたのだ。

芸術から環境、そして共同体へ。この10年の間に現代美術が扱ってきた主題とも併走しながら、ダンジェロの風景の哲学は終わりを迎える。もちろん、豊かな学際性を有し、多様なアイデンティティの場となるといったような風景観には、当たり障りのなさを感じる読者もいるかもしれない。たしかに、先行研究を精査し、今日の風景論の前提となる条件を揃えていく論調には良くも悪くも穏当さが伺える。とはいえ、繰り返しにはなるが、風景美の変遷と法制史から「耕作地」と「余所者」という鍵概念を彫り出すことで、新しい風景の哲学の出発点を印づけたとは言えるだろう。風景の美は人々が労働し、自然と営みを共存させる耕作地にもあり、そして、そこに住まう人々だけではなく、余所者のアイデンティティの場としても開かれているのだ。かつ、本書には風景とアイデンティティ、共同体の成立を丁寧に解析することで、私たちは「なにか」を共有しているはずだ、という根拠なき連帯の口実に風景が使われることから距離をとる、一種の倫理を読み取れる点も見逃すべきではない。ことに復興五輪を直前に控えたいま、被災地の風景は誰のものか?それが大きな主語によって単一化され、専有されてしまうことが、最大の悲劇であるのは疑いえないのだから。

【関連書籍】

・ジル・クレマン『動いている庭』山内朋樹訳、みすず書房、2015年
文化的で美的な風景と生態的で科学的な環境が互いに混同され、交換される場として、クレマンが定義する「動いている庭」は、ダンジェロが参照する西洋近代的な庭園美とは異なり、文化と技術の賜物である「耕作地」との共通性を見出せはしないか。


・フランシス・フクヤマ『IDENTITY』山田文訳、朝日新聞出版、2019年
ダンジェロは風景とナショナル・アイデンティティの結び付きを風景の単一化と捉えて批判しているが、フクヤマは多様な人種・背景をもつ人々を束ねる、いわば複合的なナショナル・アイデンティティの重要性をポピュリズムと経済格差の時代に提起している。クレマンの多様な植物と人間の関係を共存させる「庭」を、そうしたアイデンティティを担う場として考えることができれば、「耕作地」もまたナショナル・アイデンティティ創出を促す風景に見えてくる。

レビューとレポート第11号(2020年4月)

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