見出し画像

自由に書いてみた。あと書籍化の呼び掛けです。

最近は〆切に追われたり、追い越されてたりしている文章の内容を考えるばかりで、煮詰まってきたので、なんの目的もなく書いてみたい。

 

ツイッターが鳥からXになった。どうでもいいと思った。なぜなら、自分がツイッターであって、ツイッターはツイッターではないから。ツイートしようとして、ものすごく理解されなさそうだったので、やめる。昔、ある批評家が、インターネットがデータベースではないのです。データベースになる人間がいるだけです。と言ったことを聞いたことがあるけれど、まさしくそういう知的なリアリティと並走する形で、自分の無意識も含めた意識体が、メディアとなって、この世界で動き回っているというイメージが、ぼくのなかにはいつもある。それはあまりに世の中に身を晒しすぎで危険だと思われるかもしれないけど、よく考えてほしい。なぜ、マクルーハンがメディアはメッセージであると、わざわざ書く必要があったのか。それはとっても簡単で、ふつうメディアはメッセージだとは思われていないから。つまり、メディアのメッセージ性はいつも隠されていることになる。だから、ぼくの考えでは、私がメディアであるということは身を差し出していながら、身を隠くことができる、技術である。あなたが、あまりにもあなたすぎると、あなたがメッセージだとすぐにばれてしまうから、隠れた方がいい。目には見えているけれど、隠れている。この二重性を生きることが、メディアとして生きることである。それは間違ってもレトリックではない。リテラルに受け取られるべき態度である。

 

最近、まわりに本を書く人が増えてきた。なんでも、本にするぐらいがいいし、生き延びるためにはそのぐらいの勢いが必要なのだと思う。いまは「アート・ジャーナリズムの夜」の書籍化のためのテキスト化の作業と『坂口恭平の心学校』の校正を作業をしているけれど、もっとやっていきたいと思う。

ちょうど4月から毎月1回ずつ配信している建築家の若林さんとの「対話篇なう」も本になったらいいなと思う。美術と建築の若者による人生論。全5回で、毎回3時間も話しているから、物量はすでに足りているはず。文字起こしをしてくれる協力者も現れた。ぼくらがほとんど編集までやってしまえば、立派な本になると思う。それに断続的に対話を続けて、定期刊行していけば、ぼくらを試験管にして、美術と建築の状況が見えてくる、とってもいい参考資料にもなると思う。どうも美術も建築も、互いに書いたり話す言葉がぎくしゃくしてしまっているから、そういう固さを乗り越えて、いきなり本質から語ってしまう対話の書籍化にご興味ある方は、ぜひご連絡ください(南島宛:kouminamishima@gmail.com)。近日、第一回目の文字起こしを公開してみる予定です。

以下、対話篇なうの音声です。

https://twitter.com/i/spaces/1vOxwMqMgRbGB

https://twitter.com/i/spaces/1DXxyvAmkzYKM

https://twitter.com/i/spaces/1DXxyvvPEvVKM

 

呼び掛けになっちゃいました。

おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?