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もう再び感じることはないかもしれない気持ちの備忘録

住み慣れた地元を出て一人暮らしを始めた。

まだ家具の一つも置かれていない、驚くほど小さな部屋の床に寝袋を敷いて入り込んだ。都会の夜はうるさいと想像していたのに、駅からしばらく歩けば静かなんだと気づいた。眠りたかったのに、脳内は勝手に人生について考え始めた。

人生が簡単だと思ったことはない。煩わしいことしか起きない。嫌な記憶を優先して覚えているものだから、美しい時間があった事実など綺麗さっぱり忘れて、とにかく腹立たしいことばかりを思い出す。それにここ数年は身体のあちこちに調子の悪いところが出てきた。大抵のモノは長く使えば消耗して壊れる時が訪れるが、人体もモノだったことを再認識する。それも365日24時間使い続けているのだから壊れ始めるのは至極当然のことなのに、なぜか“自分”という物体だけは消耗品リストから漏れていた。考えてみれば、自分の心臓はどうやって動き続けているのだろうか。

最近はどんな情報媒体からも、いかにこの国の未来が暗いかという情報が聞こえてくる。給料は上がらないし、物は高くなる。お先真っ暗であると。一人暮らしをすると痛感する。電気水道ガスネット。『生きる』って、飲み食いする前にこれだけ必要なのか。理解していたはずだが、やはり一人でやってみて初めて実感する。出納帳を見ると、どうやらこの先ずっとカツカツになることが判明した。金が全てじゃないと言いたいところだが、そんなものは負け犬の遠吠えか、金に困ったことのない人間の謙遜に過ぎない気もする。

口座に入ってくる分と出ていく分が、大した無駄遣いはしていないはずなのにトントンだ。昼食だって毎日弁当を作っているのに、これは努力には入らないということか。こんな世の中で、自分は生きていけるのだろうか。急に、自分の親がとても遠い存在に感じられる。どうやって子供の面倒を見る余裕を捻出したんだろう。お金と時間の有限性を痛感する中で、親が奇術使いであることが判明する。

私という人間は、こんなにも難しい世界で、親の時間とお金を費やしてもらう価値があっただろうか。何も考えずに日々呼吸を繰り返し、時間を食い潰し、お金を振り返らなかった。これは浪費だったのではないか。この先は親孝行が叶うかどうかも怪しいほど心許ない懐になる。そのことについて、親に赦しを請わなければならないのではないか。

寝ようと思っていたのに、静かに視界が揺らぐ。カーテンの隙間から漏れ入る明かりが白い天井を浮き上がらせる。そもそも何もない部屋の空気は、そこに天井も壁も見えているのに、まるで一寸先が奈落になっているかのように『本当に何も無かった』。胸が張り裂けそうで、息が詰まる。この堪らない感情は家族への思慕であり、住みなれた土地への望郷だった。私はあの何気ない日常の全てを愛していた。その事実に気付かされた。

田んぼの真ん中を抜ける小道を、毎日のように自転車で走り抜けた。

朝は清々しく、夕方は寂しく、夜は不気味だった。

春は霞がかり紋白蝶が舞った。菜の花の黄色が畦道に見えれば、季節は巡ったと分かった。夏になれば抜けるような空と光る白雲が広がる。真っ直ぐに届く太陽が眩しく、辺り一面が木立のない田んぼでも、なぜか蝉の声が届いた。
秋は残暑の中で虫が鳴いた。彼岸花の朱が目に入れば、どれだけ暑さが和らがずともそれはもう秋の入り口だった。そんな日々が流れ去れば、冬は凍てつく向かい風である。茶色い土がむき出しの田んぼの中、自分だけが目ぼしい生き物だった。行きも帰りも向かい風になることの理不尽さで、自転車を漕ぐ足に力を込めながら常に歯噛みしていた。

美しい記憶も、たくさん覚えていた。同じに見えても同じではない眼前の景色を、毎日、毎年、この目に焼き付けてきたから。

地理的には、列車に飛び乗りさえすれば週末にだって帰れる場所だった。別に海を渡った他国に来たわけではない。それなのに、どうしてお前の視界は揺らぎ、声を押し殺して涙するのだと理性が問いかける。難しい問いではない。答えは単純で、自分はもうその世界に属していないということを理解しているからだった。

『記憶』と言うものが無地の手帳に記録されていくのだとすれば、この先、あの何でもない日々の続きが手帳に綴られることはない。仮に同じ場所に帰ってきても無駄だということを、私は知っている。

あの頃から、永遠に続くものはないと分かっていた。何気ない日々に、いつか別れを告げると思っていた。そしてこちらからさようならを言う前に、田んぼは次々と宅地に変わっていった。それを寂しいと思いながらも、誰も寄り付かない荒地になるよりはずっとずっとマシなのだと、何処かでちゃんと理解していた。そして日々の変化を余さず手帳に綴ってきた。

いつか同じ場所に立った時、その情景はかつて使っていた手帳の最終頁と全く一致しない。一度、時の流れが切れてしまえば、その続きは書けないのだ。
最初の手帳は、本当に分厚かった。何年も綴り続けたから。くたびれて年季が入っていた。人生の全てが詰まった手帳が、もう使えなくなってしまった。それがとてつもなく寂しいのだ。

小さい頃、自分の世界の全てだったお気に入りのオモチャを無くしてしまうのが不安で、常に目の届くところに置いていた。新しいオモチャなんて要らないし、どこへいくにもそれさえあれば満足だった。今まさにその大事なオモチャが取り上げられようとしている、それは人生の破壊に等しい行為だ、と私の中の子供が叫んでいる。気付かぬうちに興味を失い、存在を忘れてしまうオモチャならよかった。まだ大事にしているものだから、奪われることが苦しいのだ。

これから私の手帳は切り替わる。この新しい街の記憶のために。とても大切な、一冊目の手帳を手放す。

いずれ慣れると分かっている。きっと数ヶ月も経たないうちに全てに慣れている。新しい街が持つ騒がしさにも、見知らぬ人々のシケた顔にも。そして日々に忙殺され、このやるせない感情は失われる。数年後には自分もまた、街の喧騒を生み出し、希望を奪われた雑踏の一部になる。

何事もなかったように、昔の思い出を語るようになるだろう。地元のことを、かつての日々を。でもそれを語る私は、今の私ではない。今の私は、これから居なくなる。

誰かに伝えたいことなんて詰まってないな、と思う。誇張表現もあれば過小表現も差し込まれている。この先振り返って読めば、何をそんなに感傷的になっているんだ、と自分自身を嘲るに違いない。それなのになぜ書きたくなるんだろう。

多分、これから5年かそこら経った自分に、ただただ都会に圧倒されていた頃の、この確かな胸の痛みを思い出してほしいのだ。必ず忘れてしまうと分かっているから。

がらんどうの部屋の静寂、ひとりでに溢れた涙、人生に絶望したあの瞬間。私は居なくなる。私という人間が二度と感じることのない気持ち。
でも、今日も明日も5年後も、世界のどこかの若人が同じように感じるであろう気持ちの、ただの備忘録。

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