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深夜のラーメン考

7/4(月)

【深夜のラーメン考】

最近になって友人の影響をガッツリと受けてコンテンポラリージャズ(以下現代ジャズ)をよく聴く

元々ジャズは大好きな音楽なんだけど、ハードバップ信者だったから聴く範囲は狭かった

「スウィングしなけりゃ意味がない」

とか言ってるタイプの(お恥ずかしい)

でもロバートグラスパーやカマシワシントンは聴いていたし、現代ジャズの持つ革新性は理解していた(つもり)気になっていた

改めて現代ジャズを聴くと…

これがめちゃくちゃ面白い!

アーティスト一人一人の個性が際立っている+ジャンルの壁を超越し始めている

でも、どこを切っても、ジャズ

ここでふと思った

「現代ジャズと現代フレンチって似てるな」

伝統と歴史を持ちながら、それを解体して再構築していく

しかしその芯の部分は揺るがない

そもそも何を持ってるジャズというのか?

何を持ってフレンチというのか?

というのは人によって様々な解釈があるのだと思う

それは

「あんなんパンクちゃう!」

とか言ってた若き日の俺にも通ずる(のか?)



はてさて、僕は金澤流麺らーめん南を閉店する際に

「今までのレシピは全部封印する」

と宣言した

予想してたけど

「もったいない」

という意見が多数寄せられた

辻堂から金沢に越してきて

「豚骨は二度と作らない」

と宣言した時も同じ反応をいただいた

豚骨辞めます宣言の時は、豚骨から牛骨への移行…みたいな意味合いが強かったけど、今回は自分の芯の部分は保ちつつ表現の幅を広げるためにも過去は封印したいと考えた



金澤流麺時代の僕のラーメンは

「フレンチっぽい」
「イタリアンぽい」

とよく言われたし、僕自身もフレンチやイタリアンの手法を用いていたことを自覚もしている

それはラーメンの幅を広げる意味合いと自分の個性を発揮する意味合いと両方あった

そして石川県のラーメンの中では際立った個性を持った店になった

南大祐としては、個性を出せたのだ

しかし、フレンチに寄る、イタリアンに寄る、という表現に頼るということは、南大祐の個性は出せても【ラーメンというジャンルの個性】という広義の意味での個性はグレー化していくということでもある

それはラーメンではなくてもいいのではないか?



何を持って【ラーメン】というのか?

ここもジャズやフレンチ同様、定義は人それぞれになってくる

しかし

「フレンチっぽいね」
「イタリアンっぽいね」

と感じさせず、南大祐の個性を発揮させながらも、

「うん、これはどこにもない【ラーメン】だ!」

と思っていただけるようなものを作りたいな、と金澤流麺を閉店してから考えるようになった

それは現代ジャズがジャンルを超越した表現をしながらも、どこまでもジャズであるように…



今僕は店をしていない

そのことをプラスに考えている

考える時間だけはたっぷりとあるのだから

そして店を出したから答えが出るわけでもない

死ぬまで「ラーメンとは何か?」を問い続けるのだと思う

#ラーメンとは
#ラーメン考
#脱中華そば論

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