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苦痛ののち喜び、時々笑いあり。100キロマラソンが教えてくれたこと。


時は2019年、7月18日。


更にその日から2ヶ月ほど遡る。

僕は走っていた。
ボクサーだからだ。
コロナ禍で試合は行われず、僕は拳の怪我のリハビリに励んでいた。

ボクシングの練習が出来ずに、走ってばかりいると沢山走れるようになってくるものだ。
僕は走る時に音楽を聴いたりしない。
10キロでも20キロでも長く走る時でも同じ。
何か考えながら走るのが好きだ。


「100キロ走ったらどうなるんだろう。
コロナ禍の時代、これからどうなるんだろう。
ボクシングはどうなる。
観客を入れての試合はかなり先になりそうだ。
投げ銭か。そんなの上手くいくのか。」

「プロボクサー南出仁の100キロマラソンだ!」

投げ銭の勝手も分からないしクラウドファンディングをしてみよう。
プロボクサーとしても名前を売ることが出来るかも知れない。
何より自分の魂がやりたいと叫んでいる。
そんなことを考えていた。

その日のランニングを終え、家に戻ってすぐシャワーも浴びずに真っ先にスマホを手に取った。

大学時代から信頼のあった先輩に連絡した。

「いきなりなんですが、100キロマラソンやろうと思うんで手伝ってください!」

「明日家来いよ、準備しよう」



そうして、100キロへの挑戦が始まった。

100キロ走ったらどうなるんだろう?と思った日から2ヶ月が過ぎた。
僕はスタートの松戸駅に立っていた。
スタート前日、付き添いの後輩が事情によりキャンセル、というアクシデント。
しかし、代わりに別の後輩がこれも急遽引き受けてくれた。

朝、3時30分起床。睡眠時間は3時間ほどだった。遠足の前の日の気分だろうか、寝れなかった。

スタートは朝の5時だったがスタート位置がいまいち分からず30分ほどもたもたしてしまった。
それにその日は大雨でのスタートとなった。
気分としてはそれほど悪くは無かった。暑いよりマシだ。

3〜4キロ程走った時に大きな道の反対車線から、
「おーい!みなみでー!」と大きな声が聞こえた。
いつもプロボクサーの僕を心から応援してくれる人だ。
大雨の中、自転車で1時間ほどかけて駆けつけてくれた。
4時頃には家を出て駆けつけてくれたのだ。

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雨やスタート時のもたつきも忘れて元気が出た。

それからは付き添ってくれる後輩とずっと喋りながら走っていた。
「彼女とはどうだ?」とか「仕事は?」と。
楽しく気分も良く休憩も取らずに快走を続けた。

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浅草駅を通過した。
15キロほどいったところか。
意外と近いんだな。

その後、近くに住む方が応援に駆けつけてくれた。
差し入れや応援旗を持ってきてくれた。


「100キロマラソン、楽しいな。」

その後、皇居の前を走り抜け快走は続いた。
足が軽かった。今から考えるとペースが速過ぎた。
それもそのはず。

僕はこの100キロマラソンを舐めていたから。
もちろん不安はあった。
怪我により1週間全く走れなかったことや、梅雨の時期で圧倒的に練習量が少なかったことが重なった。
最大でも35キロ程しか走っていなかった…。

10キロを遅くても1時間で走れば10時間で着くじゃないか、ぐらいに。
ちなみに10キロは40分を切るぐらいで走ることができる。
フルマラソンを走った時も3時間39分で完走し、足へのダメージもほとんど無かったぐらいだ。


30キロ過ぎ。
そんな余裕から、少し寄り道して母校の駒澤大学で記念撮影なんかもしていた。
それから5キロ程走った二子玉川駅には応援してくれる方達が8人ほど集まってくれていた。

余裕の笑顔を見せていたが、正直に言うと足には違和感があった。
それに、雨の影響からか靴ずれもできていた。
ただ、自分の中でも諦めるという選択は無かったからこんな35キロ地点で足が痛いなんて思いたくも無かった。
今後が思いやられるからだ。

そこでは、ボクシング有料サイトのボクシングモバイルさんが取材に来てくれた。
軽く食事を取ったり30分ほど休憩をして、またスタートした。

ここからは、246号線をひたすら真っ直ぐ進むルートとなった。


地獄の開始。

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ここからは付き添いの後輩がチェンジして別の後輩がサポートしてくれた。
自転車に乗り水分や荷物を運んでくれた。時折、Instagramで様子をライブ配信してくれた。僕もまだまだライブ配信に応える余裕もあった。

が、足の方は早くも悲鳴を上げようとしていた。

膝が痛くなっていた、まだ40キロ過ぎたばかりだぞ。
一度膝が痛くなり始めて良くなることはない。
普段、この痛みなら即練習は休むレベルの痛みだ。
それがまだ40キロ過ぎ、嘘だろ。
そんな感覚だった。

更に246号線は追い討ちをかけるように坂道を連発してきた。
意外と坂は上るよりも下る方が辛い。
膝へのダメージが大きかった。
まだ半分だぞ…。

10キロほど進むとジムの先輩の岩佐先輩が激励に駆けつけてくれた。
口数も少し減っていたが、この激励で「やるぞ」と気合いが入った。

場所はここのドンキ・ホーテだ。

50キロ地点でこの状態…。
この後輩はもうゴール出来ないと思っていたそうだ。

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しかし、そこからも相変わらず246号線を走り続けた。

痛い、とにかく膝が痛い。

氷で冷やしたり水をかけたりとアイシングをするが痛みは変わらない。
こうなってしまった時点で僕の負け…。

いや、絶対に負けるわけにはいかない。
この100キロマラソンにあたって僕はクラウドファンディングでお金を集めていた。45万9500円…。
勝手に始めたけど、勝手に辞めるわけにはいかない。
お金を貰うということはそれだけ責任が生まれる。
当然、僕がプロボクサーとして戦いお金を貰うことも。
途中で投げ出すことは出来ない。
減量が辛くても、仕事が大変でも、膝が痛くてもだ。

ただ、その気持ちを”折る”最大の敵がいた。

信号機だ。

この100キロを通して2〜3時間は信号の待ち時間で止まっていただろう。
それだけならいい。
一度止まってしまうと激痛を耐えてせっかく少し痛みに慣れたかなというところでもう一度振り出しに戻されるのだ。
走り始めは本当に激痛だ。



苦しみはオプショナル(自分次第)

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60キロ〜70キロの間は一生忘れない。
後輩の道案内により変なルートを走らされる。
雨で道路はぐちょぐちょだった。
ふざけんな、というルートだったが何も言う気力がない。

しかし、信号機がない。

ここで僕は”ゾーン”に入る。

信号機の無い道は止まる必要が無い。
痛みは”感覚”を通り越して、”感情”に変わる。
僕は走っていた時、「膝の中が光っている」と、今から考えると訳の分からないこと言っていた。

要は、”痛い”から”辛い”に変わったのだ。

辛いことを耐えるのはボクサーの得意分野だ。
日々の練習で鍛えてある。

この”苦しみはオプショナル”という言葉は、村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」の”前書き”に書かれていた言葉だ。

僕はこの言葉の意味を理解する為に100キロを走っていたのではないだろうか。

痛いのは避けられない事実だが、苦しくても辛くやるのかやらないのか決めるのは自分次第だということ。
出来ると信じていれば、我慢出来る、耐えられる。
辛く、道が険しくとも、自分の未来を信じなければいけない。


前書きについては100キロを走り終えた後に読んだから、「なんだこんな所に書いてあったのか」と少し笑ってしまった。
100キロの”答え”のような事なのに。

この70キロ地点ではこの事に気がついて少し涙が流れていた。

一人で、「もうゴールでいいよ」と思っていた。
そんな訳にもいかずに走った。

良い話ばかりでは無い。
この時の僕は疲れていた。
一人目の後輩とは楽しく会話しながら進むことができた。
元気だったから当然。

この頃はもう口を開くのも億劫になっていた。
後輩には10メートルほど先に進んでもらいペットボトルの水を用意して待ってもらっていた。それを僕は無言で受け取り、例によって走りながら飲む。
その飲み掛けのペットボトルは無言で道路に投げ捨てる。
(下に置く動作すら辛いのだ。)
そのペットボトルをまた後輩が拾って同じように10メートル進んで待っていてくれる。
それの繰り返し。
何も言わずに…。


この時の話しをよく一緒に付き添ってくれた後輩とするけど何度思い出しても笑ってしまう。
良い笑い話が出来た。


平塚八幡宮通過。

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その後、残り25キロ地点の平塚八幡宮には応援してくれる方達や、この100キロマラソンの仲間が集まってくれた。
朝、5時半頃に応援に駆けつけてくれた方が奥さんと一緒にもう一度仕事終わりに駆けつけてくれた。
僕は完全に笑顔を取り戻した。
嘘みたいに体が軽くなった。
応援の力というものを言葉ではなく体で実感した。

差し入れのスイカが美味かった。
覚えている。

また仕切り直して走り始めた。
朝の5時にスタートしたのに陽が落ちて暗くなってきていた。
10キロほど進んだところで痛みが激しくなってきた。

股擦れや靴ずれ、足の裏の痛みが気にならないぐらいに膝、腰、お尻が痛くなってきた。書いているだけで思い出して痛くなりそうだ…。
ここで初めて歩いてしまった。この100キロマラソンは走ってゴールしたいと考えていただけに悔しかった。

歩いていた途中、大学の先輩からのメッセージに涙が耐えきれなくなってしまった。
ボロボロこぼれ落ちた。
もうここがエンディングかのように。
どこかから、サライ🎵が流れてきそうな。

''サクラ〜吹雪の〜、サライ〜の空は〜
哀しい程、青く澄んで、胸が震えた〜''


だけどゴールはもう少し先、無心で進む。
ひたすら進む。

感情はあるけど無い、自分の体を松戸駅から小田原城に運ぶ。
この重い、自分の体という物体を前に進める。
先のことも考えず目の前に見える数メートル先に向かって足を左右交互に動かす。
それだけ。たったそれ''だけ''を考える。
それ以外にこの苦痛から解放される方法は無い。
足を前に進める。
この一つの行為だけが、ゴールという目標に近づき達成をもたらす。
…シンプルなことから学ぶことは多い。
そして複雑な人生をシンプルに考える。




小田原城が見えた!
後少し、ゴールと思ったけどやっぱり上まで登らないと。
階段は膝が全く曲がらないから辛かった。

今度こそゴール。

ビールがかけられた。
人生初のビールかけ。
それほどのことをやったぞ、と達成感もあった。

ゴール直後の感想は、嬉しさよりも「2度とやらない」が強かった。
ゴール前に涙も全て出てしまっていた。
そんなもんだ。

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感謝の気持ちは一層強く感じた。
ゴールしたのは22時30分。約17時間ほどサポートしてくれた仲間の人たち、クラウドファンディングから応援してくれた人たち、熱いメッセージをくれた人たち。
沢山の人たちに感謝の気持ちが一杯になった日になった。


それから仲間の人たちと温泉にでも行こうとなった。



なぜか、体が動かない。
しかも震えている。
低体温症だ。
絶対にビールだ。
慌ててお湯に入れてもらうとすぐに良くなったけどこれも良い笑い話が出来た。

それからみんなでご飯を食べた時のビールは最高に美味かった。

みんなで色々振り返って喋っていたら夜中の3時だ。


とんでもない24時間となった。


それともう一つ。
この100キロを走る際にスポニチさんに取り上げていただいた。
クラウドファンディングを立ち上げた際と、完走後の2回。
プロボクサーとして名前を上げたいという思いも果たせた。
しかし、色んな声があった。

「アスリートが100キロ走るのは難しいことじゃない」
「歩いても24時間なら達成できる」
「ボクシングをするのに100キロを走る筋力は必要ない」
「45万円も集める意味が分からない」

色んな意見があったことをnoteには記しておこう。
勉強になったし、それだけ注目してもらえたのも良かったことだけど。

しかし、それ以上に感動の声が僕には届いていた。
本当にたくさん。
やって良かった。
自分の直感を信じて行動して良かった。



とんでもない所を目指しています。

  #100キロマラソン#マラソン#ウルトラマラソン#苦しみはオプショナル#村上春樹





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