追悼

医療機関に従事している。

それ故、人の死に直面する回数が多い。


厳密に言うと、
入院患者が亡くなった時と
個人的な知り合いが
亡くなった時の感覚は少し違う。


医療従事者である私が知り得る
彼/彼女の人生の軌跡には限度があり、

私の記憶のほとんどは
どうしても彼/彼女の闘病生活が
中心になってしまうので、

お疲れ様だったね、という気持ちになる。


ただ、何度経験しようとも、
落胆したような、納得したような、
なんともいえない気持ちを覚える。


患者が亡くなるたびに
泣いているようでは
自分の身が持たないと、よく耳にする。

これは、あながち間違いではないと思う。


だけど、
ひとりの人間が一生を終えることに対して
何も感じられなくなるのは嫌で
その日一日だけは
心の中で追悼のようなものをし続ける。


追悼といっても、
難しい言葉を並べるようなことはしない。

その人の口癖、後ろ姿、手、横顔、笑い方、
生きていた頃のことを
とにかく詳しく思い出してなぞるだけ、


鮮明に思い出してみると
その飽きるほど見続けた仕草が
もうこの世に存在しない寂しさなのか、
少しだけ泣きそうになる。


私の父親は、
私が高校生だった頃に逝去している。

私なりのこの追悼、
父親の死に対しても同じことをしていた。


最初の頃は強制的にそれをしてしまって
その度に涙が止まらなかったけれど
いつしか突発的に思い出すようなことは減り
思い出の鮮明さも失い
もう今では、同じようにしても
泣くことはなくなった。

それでも時たま、自発的に思い出をなぞる。
忘れるのが人間の性だし、
ずっとつらくては生きていけないから、
忘れるというのは乗り越えるということに必要。

だけど、覚えておきたいことだってある。


ひとりの人間がいたということを
その仕草や表情を忘れないために、
今日も私は、「追悼」をするのだ。

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