私の変態の父#4 ―私の母というものの軽さ―

これは、私の母のストーリーである。

私の母は、東京都新宿区の生まれだった。

母方の祖父母は製菓店を営んでいた。私が生まれたときにはすでに祖父は引退していたのか、私には祖父のお店の記憶はないのだが、祖父は私に、「おじいちゃんはな、はかりを使わないで、お菓子の生地を手だけでぴったりの重さにちぎれたんだぞ」と嬉しそうに語った。

戦時中、祖父の製菓店で材料が不足し食パンなどを売れなくなったころ、町の人たちが「もっとパンを売れ」と怒鳴りながら祖父の店のシャッターに石を投げてきた、と祖父は話していた。

しかし祖父と祖母、そして私の母から、戦時中にひもじい思いをしたという話は聞いたことがない。きっと食料を手に入れるなんらかの手段が、祖父にはあったのではないかと私は思っている。

私の祖母は社交的でかつでしゃばらず、祖父の商売を上手に支えたらしい。お菓子作りの見習いの「若い衆」が何人か出入りするなか、なんやかやと世話を焼いていた。祖母は、サラリーマンの妻とは異なり、祖父のビジネスパートナーでもあった。

祖母の家庭内での発言権は、私の母のそれと比べると、かなり大きかったようだ。祖父と祖母はいつも仲良かったわけではないが、私は小学校低学年の頃に、祖父と祖母が商売のことや生活のことで、いつもなんということもない会話をたやさなかったことを覚えている。1970年代だ。

私が知る限り、祖父と祖母夫婦は、対等な立場でしゃべっていた。それが当時どれほど稀有なことだったか、子供だった私は知らなかった。

祖父たちの製菓店はうまくいき、先代から受け継いだかどうか定かではないが、私が生まれる1960年代後半には、都内にマンションをいくつか所有するまでの土地持ちとなっていた。

そんな都内のやや裕福な家に、私の母は、1934年(昭和14年)、3人姉妹の長女として生まれた。

その数年前に日本は満州事変や盧溝橋事件を起こし、1937年、母が3歳のときに日中戦争を開始した。その2年後1939年には、第二次世界大戦が勃発している。

そういえば、私は祖父と祖母から、戦時中の話をまったく聞かなかった。いまは、しっかり聞いておけばよかったと後悔している。

しかしその一方で、彼らがまだ生きていた、私が20代~30代の頃、私は性的虐待を受けたことの重大性を理解し、鬱状態の中でもがき苦しんでいる真っ最中だった。その頃の私は、残酷で理不尽な戦争の話を受け止めることができるような精神状態ではなかったため、戦争の実体験を語り継ぐことは、私にはできなかった。

さて、私の祖父と祖母は、親としての情緒的な養育を十分になえる人格者であった。私が覚えている限り、二人とも、8人いる孫の誰に対しても同じく注意を向け話しかけ、お小遣いを渡し、食べ物を用意してくれた。決してえこひいきはせず、一人ひとりの性格を受け入れて、それぞれの特徴を褒めてくれた。

そして、私の母は、当時の日本の女性としてはめずらしいことだと思うのだが、義務教育を終了後、いわゆるお嬢様学校ではあったが女学校に入学し、「学歴」という肩書さえ持つようになる。

このように、私の母は、経済的にも情緒的にも、さらに文化的にも、比較的裕福な恵まれた環境で育ったと言えると思う。母が育つなかで大きな怪我や病気、悲惨な被害体験など、私は聞いたことはない。

ただ、もし仮に実際のところ母の過去に何かがあったとしても、今存命の叔母たちは、そのことについて絶対に口を割らないだろう。叔母たちは、何か起こるべきではない事が起こったときに、もしその取り扱いに失敗したら、自分達の平穏な生活が壊れるかもしれないことを避けたいからだ。まるで「何もなかったかのように」振る舞うのが一番安全なのだ。

私の母は、戦後の日本の復興とともに思春期を迎え成長したことになる。

ちなみに、母が他の姉妹とともに学んだお嬢様学校「川村学園」はいま現在も存続している。そして現在のこの学校の学校紹介では、令和とは思えない次のような古めかしい紹介文が記載されている。

『教育理念に掲げる「感謝の心」「女性の自覚」を育む:幼稚園から大学院までを擁する総合学園である川村学園。創立者川村文子が関東大震災後の荒廃した社会をわが国の「非常」の時ととらえ、その解決のために女性の力(活躍)が不可欠であるという強い信念を持って、大正13年(1924年)に川村女学院を創設した。以来、「感謝の心」を基盤に「女性の自覚」を育む一貫教育を施し、そこから「奉仕の精神」を実践できる女性を育成している。』

2024年の現代でさえここまであからさまに「女性の自覚」というくらいだから、母が現役で学んでいた時代の女性教育がどのようなものであったか、推し量ることはできる。

母の思春期には日本の家庭にテレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及し始めた。母が30歳だった1964年には東京オリンピックが開催され、東海道新幹線も開通した。母が20代とみられる写真には、キッチンの背景に冷蔵庫らしきものが映っている。

実家を出ると同時に大企業勤務の夫との結婚をはたした私の母は、おそらく、生涯お金で苦労したことはないのだろうと思う。

しかし、令和の今となってはこのことは、誰でも知っている事実となったが、この輝かしい日本の高度経済成長は、「妻が内助の功で夫を支え家庭を守る」と「夫が24時間働くモーレツサラリーマンとなり大黒柱として家族を養う」と「税制で国が、更生福利制度で企業が、その仕組みを守る」の3つがセットになった護送船団方式で、初めて機能したものであった。

さらに、昭和初期からいまの自民党(党の名称がこのころからどう変わっているかどうか私は詳しくはないが)の方針として、育児・介護などの「この国の福祉は女に担わせる。それが日本型福祉社会だ」と唱えていた。

この政治家たちのイデオロギー的目論見と、経済が大車輪でまわり右肩上がりの好景気があいまって、性別によって担う役割が決まってしまうこの性別役割制度について、当時の日本人一人ひとりが、ひとかけらも、本当にひとかけらも、疑問を抱かなかったのだ。

人が生まれたときに、女性器がついているか、男性器がついているか、ただその違いによって、生涯担うべき役割が、本人が誰かと話し合うことも対話することも交渉することもまったくなく、また、本人が自分の心に問いかける隙間もなく、100%自動的に決定してしまっていたのだ。

そんな時代背景のなかで、私の母は、父と見合い結婚をした。母の結婚とその後の人生について、次回私のX(旧Twitter)を引用しようと思う。

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