見出し画像

第2回 死者のコトバ 若松英輔

 先日、作家の大江健三郎が亡くなった。彼の『持続する志』と題する本のなかに「原民喜を記念する」という講演の記録が収められている。そこで大江は原爆投下後の広島を描いた小説『夏の花』にふれ、「まだ開いたまま終わっている、すっかり小説が閉じられてしまわないままで終わっている」と述べ、ここで問われているのは解決がつくというたぐいの出来事ではないことを語気強く語る。
 この文章を読みながら、自ずと原田正純の『水俣病は終っていない』を想い出した。この問題に終わりがくることはない、というのは水俣病事件に深く寄り添った原田の実感だった。
 現代人は大きな困難に直面すると、どうやってそれを解決するかを考える。だが、原民喜も大江健三郎も原田正純も安易な解決よりも、それと向き合い続ける道があることを示そうとする。彼らに共通しているのは、生者は亡き者たちによって問われているという実感である。
 石牟礼道子に「もうひとつのこの世とは」(『綾蝶あやはびらの記』、平凡社)という小さな随想がある。そこで彼女は水俣病事件の初公判にふれる。
 このとき企業側の弁護士は、何ら悪びれることなく、チッソは「無過失」であることを強調した。こうした言説を受け、石牟礼はその一方で、「患者・家族たちの吐くことばは、通常にいう野次というより、呻きや短い絶叫のたぐいであった」と述べている。呻きや明瞭な意味を伴わない「絶叫」は記録に残らず、世の喧騒の中に消えていく。ある者たちは、そうした声にならない声を無化しようとさえする。だが、水俣の叡知はそれに強く抗う。同じ作品で石牟礼はこう書き記している。

おのれの死を先取りしてのみ生を選択しなおし、許容された生を突破して生きようとしているひとびとがここにいる。さらに死者たちに生をも転生させたいとねがっているひとびとが。

 死者たちは言葉を語らない。しかし、不可視な存在となった彼ら、彼女らは、ある生者たちとともに、言語とは異なる無音のコトバで「死民」の存在を隠蔽しようとする時代の常識と対決するのである。

(わかまつ・えいすけ 批評家)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?