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悲しい日の過ごし方と、ただ話を聞くということ

昨日の日曜日はニュース記事や番組、SNSなどを観ないと決めていました。あるニュースを思いがけず目にしてしまうことがないように。
1年前に起きたそのことを、まるで忘れたかのように明るく過ごしています。口にすることも減りました。でも実際は、考えない日はありません。

この記事は、「そのこと」について具体的に書くことが目的ではありません。
どうしようもなく悲しいこと、喪失感の最中どう過ごしてきたかを、ちょうど1年経った今、自分のために書き残しておきたいのです。

みんなが知っているようなニュースであっても、人から見ればなぜ?と思われるようなことでも、そのことで感じたことは自分だけのものです。私は家族や友だちの前でたくさん泣かせてもらったけれど(起きたばかりの時は生徒さんの前でも涙を堪えられませんでした)、そうすることで感情を解放し、傷ついていると自覚し、癒し、同時に自分自身にずっと問いかけて来たのだと思います。

このことが起きた意味は自分にとってなんだろう、と。

その1 なにもしない(というかできない)

それが起きてすぐは何もできませんでした。
すぐに驚いた友だちから連絡があり、その後関係者から連絡があり、あとはただニュースを見ていました。
すべてのことがそのことと結びついて感じられ、より悲しみが強化されるような毎日。

いつもだったらやりたいことに溢れていて仕事以外の時間もずっと手を動かしているのに、何もやる気が起きず、気づけば涙が流れていました。

一体いつになったら気持ちが落ち着くのか見当もつかない日々が続きました。

その2 情報を見ない

仕事に関わることでもあったので、毎日情報を追っていました。何かが決まれば連絡が頂けるはずですが、調べずにいられませんでした。
もはや起きてしまったことはどうしようもない。知ったからといって何もできないし、ほとんどが推測のようなもので疲れるばかりでした。
自分の心をおさめること以外に力を使わなくてもよかったと、今では思います。

特にSNSで目に飛び込んでくる推察などがとても辛かった。今もあまり、仕事以外ではSNSを見ないようにしています。
自分が悲しみや怒りだけを発信しないようにという戒めも込めて。

その3 挿木で植物を育てる

だんだん活動ができるようになって来たら、植物の植え替えをしたり挿木で増やすというのがとてもよかったです。

1人でできるし、手をかけた結果植物が増えていくということに癒されました。
生きるとは何かを考え続けていたからこそだと思います。

グリーンが増えると居心地も良く、おうち時間が増えた今にうってつけ。
今も挿木でモンステラと月下美人、エヴァフレッシュを育てています。

その4 運動をする

こちらの記事に書いたように、コロナ期に入り、オンラインピラティスが日常化していました。
しんどい時こそ体を動かす。
それは本当にその通りで、気持ちへの効果は絶大です。
しかしこちらもプロの出不精。どんなに心に良くても、家でできる運動でなければ続きません。

ピラティスは動きが難しく、正しい体の動かし方を意識しながら次々に新しい動作に移っていくため、他のことを考える余裕があまりありません。
だからこそ、今ここに意識を向けるマインドフルネスが実現できる動く瞑想とも呼ばれています。

瞑想の良いところは、感情と自分をある程度切り離すことができること。とはいえ座ったままやる瞑想は私にはまだまだ難しく…その点ピラティスなら、自然にその状態になってしまえます。

そして、何はなくとも今日は運動ができたのだ!と肯定感が持てるのも良いところでした。

その5 刺繍で気持ちを表す

これはちょうど、そのことが起きたばかりの時に、下絵もなく刺繍したものです。
心の状態のままに刺繍した、縮尺も何もないもので、いつもの作品と違うと驚いた方が、わざわざメッセージを下さったりもしました。その方はずっと連絡も取っておらず、もちろん何もご存知なかったのですが…。やさしい方ならではの観察眼なのだと思い、そのことにも癒されました。

しばらくは針も持てませんでしたが、少し落ち着いてくると、やはり刺繍しないではいられませんでした。

他にもこの時の気持ちを込めて下絵を描いたものがあり、ゆっくり刺繍にしている最中です。

その6 人には話しても話さなくてもいい

冒頭にも書いた通り、色んな人にこのことを聞いてもらいました。
でも本当の気持ちは言語化できないし、相手に100%伝えることもできないでしょう。

真逆のことを言うようですが、コロナ期のため人に会わなくていいというのも大きな救いでした。以前のように飲みに行ったりレッスンが多くあったりという時期だったらきっと話さなかったと思います。浸ってしまったら自分を保てないし、仕事が回らないから。
多くの人が自分を見つめ直す時期だったからこそ、聞いてもらいたいという気持ちが生まれました。そして自分自身、悲しいという感情を丁寧に受け止めることができた気がします。

相手の意見で、傷つくこともありました。それは相手のせいではなく、私の心が敏感になりすぎていることが原因です。

特に悲しみと自分との距離を適切に取れていない最初の時期は、どんなやさしい言葉をかけてもらってもしんどく、悲しみから怒りが生まれることすらありました。

そんな混乱状態の中、話を聞いてくれた人みなさんに感謝しています。

仕事のことでもあったので、告知をどう書くかということについても悩みました。これも「人にどこまで話すべきかどうか」の類いかもしれません。
悩みつつも、やはり作品に込められたメッセージそのもの(そして世界観の一端を担わせてもらった刺繍そのもの)を楽しんで頂きたいと感じましたし、ご協力頂いた企業さんのこともきちんとご紹介したかった。
そのため現場でのこと、感じている悲しみや喪失感などには極力触れず、ただ作品と素材や道具のことをお知らせするように心がけました。

今もこの仕事に出会えてよかったと心から思っています。暮らしの中で使う刺繍を提案していくという意識が目覚めた決定的な分岐点でもありました。

同時に、とても前向きに取り組んだ仕事だったからこそ、制作の真っ只中で起きたそのことに、心がついていかなかった部分もあります。

時が解決するとはいえないけれど

幸いにもたくさんの人、ことに支えられて、今は通常の暮らしができています。刺繍もまた楽しめるようになりました。
けれど悲しみというものは一般化することのできないものすごく個人的なものです。解消のためのアドバイスは存在せず、時が癒してくれるというものでもなく、どんな形であれ、その人の中に残るものだとも思うのです。

私たちは悲しんでいる人を見ると、つい励まそうとしてしまいます。

大丈夫だよ
飲みに行って忘れよう
そんなに深く考えすぎないで

でも、忘れなくてもいいし、深く考えすぎてもいい。泣いてもいいし、嘆いてもいいし、ずっとずっと抱えていてもいいのだと今は思います。
その人の悲しみはその人だけのもの。
たとえ周りからは元気そうに見えても、ずっと抱えて生きている人もいるでしょう。
いつになったら回復するかもその人だけの問題です。回復しないという選択すらも、決定権はその人にあります。
元気になるかどうかもその人が決めることです。

これは自分自身の感情について考える中で帰着した考えであり、同時に「去年起きたこと」について考える中で思い至ったことでもありました。

ただ評価もせず、意見もせず、話を聞く。

去年の今、私がしてほしかったことはこれでした。
でもこれ、いざ自分がやろうとするととっても難しい。つい、良かれと思って意見しちゃうのです。

いつか身近な人が深い悲しみの最中に在る時、そうできる自分になりたいなと思います。
その人だけの悲しみを横取りしてしまうことのないように。決めてしまうことのないように。
その人がどんなに苦しんでいて、それをどうにかしてあげたくても、どうするかはその人が決めること。
それを肝に銘じて生きたい。

読んで頂き、ありがとうございました◎

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