母の書斎
私の母は小学校の教師をしていた。専攻は理科なので昆虫や植物にとても詳しい。
休日や夏休みになると、ときどき母は職場である学校に私を連れて行った。当時小学生だった私は母の仕事を手伝った。
理科室のビーカーを洗ったり、アヒルの飼育小屋を掃除したり、教室の机を拭いたりといったこと。
別に嫌々やっていたわけではない。どちらかと言うと、多忙な母と一緒に居られるのが嬉しかったし、人の役に立っている喜びすら感じていた。
だが、母を通じて学校の裏側を知っていたぶん、私は自分の学校では冷静な視点で教室全体に気を配っている変な子供だった。
餌やり当番をサボってもウサギが生きている理由を知っていたし、休み明けなのに教室の机の上に埃が積もっていない理由も知っていた。
先生が授業参観の前日には徹夜で教材を準備して臨んでいることも、自分の子どもの授業参観には一度も参加できないことも理解していた。
何も知らずに無邪気に小学生として生活しているクラスメイトが羨ましくもあった。
実家には母が教師であったことが一瞬にして分かる部屋がある。
それは、母の四畳半の書斎だ。
この部屋には、天井の高さまで本棚が配置してあり、そこには昆虫図鑑、科学の本、学校教育関連の本や資料が今にもはち切れんばかりに押し込められていた。
この書斎は母にとっての第二の職場であった。私が夜中に目覚めて母を探すと、母は机に向かってプリントの丸付けをしたり、明日の授業の準備をしたりしていた。壁紙からもカーテンからも母が眠気覚ましに飲む珈琲の匂いがした。
母の書斎はお菓子の宝庫でもあった。母が自宅で仕事中に食べるチョコレート、キャンディー、ケーキ、クッキーなどのお菓子。大抵は包み紙しか残っていなかったが、時々母の書斎に忍び込んでそれらのお菓子をこっそり頂くのが楽しみでもあった。
教職というのは、最近になって過酷な仕事であることが世間的に認識されるようになったが、母が現役世代だった30年前はさらに責任の大きい仕事だったように思う。母はいつも疲れた顔をして無言でご飯を食べていたし、私と姉が寝た後も深夜遅くまで仕事をしていることが日常だった。
特に、学期末の通知表をつけることは大仕事であったようで、「今日から通知表をつけるから」と声高らかに宣言したときは、なるべく母の邪魔はしないようにひっそりと布団に入ったように記憶している。
一度、母の書斎に入って驚愕したことがあった。あれは、教職員が一年で最も多忙になる年度末だったように記憶している。
ゴミ箱の中に、桜餅が入っていただろうプラスチックのケースが捨ててあった。桜餅は大抵5つ入りである。5つの桜餅が一つも残っていないということは、母はこれらを全て一人で平らげたということである。
この時「桜餅は家族で1つずつ分け合って食べるお菓子だ」という私の信念がぶち壊されたと同時に、このような高カロリーのお菓子を残さず食べなければ完遂できない教職の過酷さを子供ながらに悟った。
この桜餅の空ケースが与えた恐怖は、将来教師にはなるまいと私に誓わせるほどの威力であった。
また、この部屋は彼女にとっての実験室でもあった。ある時、母の部屋に何気なく入ると、一匹のモンシロチョウが舞っていた。
部屋の中を当然のように舞っている蝶を目にして、私は一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。
なぜ部屋の中に蝶が飛んでいるのか。いつから飛んでいるのか。この蝶はどこへ行くのか。そんな疑問で硬直状態の私を見ると、母は誇らしそうにこう言った。
「今日ふ化したばかりだよ。」
母は蝶が好きだった。畑や庭からたくさんの卵や幼虫を採取し飼育していた。飼育方法もユニークなものであった。
部屋の柱に、得体のしれない複数の蛹をダイレクトに張り付けていた。確かに木ではあるから、幼虫にとっては違和感がないだろうが、私としては違和感以外の何物でもなかった。
蛹の隣には、蛹になった日付が几帳面に鉛筆で記されていた。まるで子供の身長を記録しているような柱の使い方に、思わず笑ってしまった。
母の部屋で一体どれだけの蝶のふ化を見守ってきたのだろう。
モンシロチョウ、アゲハチョウ、キアゲハ、クロアゲハ・・・・。
春になり蝶を見ると、私はあの母の4畳半の部屋を思い出す。
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