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9年前の3.11。福岡とソウルでの出来事を思い出して。

今日で、東日本大震災から9年が経った。
9年前、僕はリクルートの九州支社でSUUMOの制作の仕事をしていた。
だから震災の被害とは、物理的に遠いところにいて、
地震速報を見てもいまいちピンと来ていなかったことを覚えている。

あの日は、SUUMOの入稿日だった。
入稿日のオフィスは、いつも以上に緊張感と慌ただしさがある。
そこに、東北支社と東京本社の情報が、次々に舞い込んでくる。
まず、従業員とパートナー(業務委託)の皆さんの無事が確認された。
そして、入稿作業をどうするのか。

そもそもこの状況で、翌週のSUUMOは発行されるのか?
そんなことはすぐにその場で決まる話でもなかったので、
とにかく東北と東京の入稿データを、それ以外の制作拠点で割り振り、
九州支社でも黙々と、いつもより遥かに多い量の入稿をこなした。

幸い、東京に住んでいる家族や友人はみんな無事だった。
唯一、蕎麦屋になる夢を叶えるために脱サラして東北に移住したばかりだった元上司だけが、「開業目前の店舗が被害にあった」という残念なニュースが耳に入った。

数日後、この元上司からもらったメッセージが、僕の人生を大きく後押ししてくれることになる。

当時僕はいわゆるガチな市民ランナーだった。
クラブチームに所属し、平日も土日も走りまくっていた。
もともと中距離の選手だったが、徐々に距離を伸ばし、いよいよマラソンに挑戦しはじめた段階。
2011年3月20日のソウル国際マラソンでサブスリー(3時間切り)を目標にしていた。

今のコロナウイルスによるイベント自粛と同様に、当時も日本全国のマラソン大会が軒並み中止になっていた。
ランニング仲間たちも走る機会を失い、僕自身も気力を失いかけていた。

ソウル国際マラソンは、他国ゆえに中止にならなかった。
福岡⇔ソウルの飛行機も、欠航にならなかった。

それでも僕の中で大きな葛藤があった。
全国的な自粛ムード、マラソン大会も軒並み中止。こんなときにスポーツなんてやっていていいのか。
僕の中でも、「棄権」はほぼ決まりかけていた。

そんなときに、例の元上司から連絡をもらった。
「おまえが走ることが希望になるから、行ってこい」と。

本来なら僕が励ます側でなければならないのに、逆にものすごく励まされてしまった。
もう、元上司の言う通り、走ることで励ますしか、選択肢がなくなった。

3月19日
ソウル出発前の福岡空港国際線ターミナル。
ランニング仲間が総勢10人くらいで見送りにきてくれた。
「俺たちの分まで、がんばってこい」と。

3月20日
ソウル国際マラソン当日。気温2度。大雨。
低気圧のせいか、朝から頭痛。
はっきり言って最悪のコンディションだった。

でも、

あの日、35km地点。マラソンで一番きついところ。
漢江を渡るおよそ1kmの長い橋の上、
ついに身体が限界を迎え、
呼吸も苦しくなったとき、

震災や津波で本当に苦しい思いをした人々のこと、
抗うことができない自然災害への恐怖と憎しみ、
自分が苦しいながらも生きていることの喜び、
応援してくれてる人たちがいるありがたさ、

色々な感情が込み上げてきて、雨の中を泣きながら走っていた。
本当にきつかったけど、止まるわけにはいかなかった。

ゴールタイムは、2時間58分56秒。
35kmで湧いてきた色々な感情に、目標達成と完走の嬉しさが混ざり、
頭が軽くパニック状態になってゴール地点で泣き崩れたことを覚えている。

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3.11がくると、いつも9年前のこの数日間の出来事を思い出す。

あのとき力を与えてくれた皆さんと、僕の結果を見て力になったと喜んでくれた皆さんに改めて感謝をするとともに、

東日本大震災で犠牲となられた方々に謹んで哀悼の意を表します。

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