黒坂圭太『陽気な風景たち』感想
絵の変容。見る者の認識を崩壊させるデザインの変容。意図的であれ、反意図的であれ、そのような認識論的不安(細田守の『おおかみこどもの雨と雪』を見よ)を抱いたとき人はどのように振舞うべきか。事物の変容もしくは分化は、見る者の分節の機能不全を引き起こしさえする装置として機能する。それをリデザインと呼ぼうが、原形質性と呼ぼうが、作画崩壊と呼ぼうが、ここで言う変容はそのまま時間に翻訳できる。ドローイングアニメーションだけに限らず、作画アニメーション全般に起こるかもしれない可能態としての時間。思いもよらぬその出来事性の遭遇は、ある規則性を保っている作品よりも強度のある作品として見る者の眼の網膜に焼き付くものの、焼き付いたものを他者にどう説明していいのかわからない。ある意味に分節することはできるかもしれないが、果たして、その振る舞いは分節機能不全を引き起こす装置を内包している作品に対して適切なのかどうかの迷いがあるのも確かなのだ。これは倫理の問題である。完結を絶えず回避し、分化し続ける。これは逆説的だが、絶えず分化し続けるということは、その絵は未だ未分化な状態に置かれているのだ。
黒坂圭太の『陽気な風景たち』と題されたこのアニメーションの冒頭のカットは、絵なのか、もしくはただの実写の画なのかわからない。見る者はそのどちらかの判断を迫られる。しかも、(気が遠くなるほどの遅さなものの)その絵/画は徐々に徐々に変容していくので、見る者は判断を急がされる。次に映し出されるカットはなにか黒い染みのようなもので、それも絶えず変容していく。そして、流れる画面にそぐわない鳥や風の音。この不均衡さ。映像と音(ソニマージュ)が対等関係にならない。ただただ、見る者を困惑させるしかないそれらは、しかし、いやだからこそ強烈なインパクトとして記憶に残る。
作品は、流動性(=時間)の暴力的な否定として十数分で完結するものの、見る者にとっては未だ完結せざるものとして脳内に残り続けるだろう。