生きたいのか

最近カタシロという対話型1対1TRPGをいろんな人にやりまくっている。
驚天動地俱楽部のディズムさん(@DizmKDC)が作成されたシナリオで、なんというか哲学的な内容となっている。気になった方はYoutubeのディズムさんのチャンネルをチェックだ。シナリオプレイ動画があるので完全なるネタバレだが。

ネタバレは回避したいので具体的な内容は書かないが、生きるということについて考えさせられる内容となっている。

んでこないだVRChatのイベント、哲学カフェのテーマが「よく生きるとは」だった。

そんなわけで生きることについて考えている昨今なのである。

生粋の死にたがりとなってしまった私にとって、「生きたい」「死にたくない」「死ぬんじゃない」「とりあえず生きろ」っていう言葉や気持ちがさっぱりわからなくなっている。

「生きるとは」の前にそもそも「生きる」ことを選択させてくれるような問題と選択肢がないとダメなのだ。もっと言えば「死なない」選択肢を選ばせてくるような問題だ。

私の大好きな作品の映画が今年あって、来年は私の大好きなキャラが出てくる映画になるとの予告がなされた。オタクである私にとってこれは「生きる」理由に足りうるが、その告知からしばらく経った今気づいた。

「生きる」理由があることがプレッシャーになっている。

いやそもそも生きたくないんだって。一時的に生きたくない気持ちを生きたい気持ちが上回ったけど今は「生きなきゃならないのか……」と残念な気持ちになっている。非常に面倒くさい我ながら。

だからといって自殺とか積極的に死ぬ行動をしないのだから、結果的に生き延びてきた人生なんだからこれまでとそう変わらないはずなのだが、推し映画があることによって「生きる権利」が「生きる義務」になってしまったことが辛いのではないか。もちろん私が勝手にそう捉えているだけなので、傍から見たら勝手にそう思ってるだけだろと思われるだけなのはわかっている。

「臓器くじ」という思考実験があることを知ったのだが、簡単に言って「くじ引きで殺す人間を1人決め、その人を殺して臓器を提供し多くの人を救う」というもの。これを人に問うといろんな理由で嫌だと言ったりいいんじゃないと言ったりして面白い。
私はどうかと言われればくじ引きと言わず私を選んでくれそれで提供できる臓器全部誰かにあげてくれと言いたいくらいなのだが、まあ多分そういう人は少ないんだろう。

死にたい死にたいけど積極的に死ぬ気はないと延々noteで叫び続けているが、これは私にとってただの愚痴で、どこかで吐き出したいただそれだけで、人に言い難いからこうしてnoteにブツブツ独り言を呟いている。

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