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つぶやき:世の中のものすべて小さ過ぎる、短か過ぎる……

こんなタイトルになってしまいましたが、大上段に構えてものを言うつもりは更々ないのです。小説と違い脚色のない正直な気持ちを記していくのが ねこのnote なので、今の私の正直な心の感触を記してみただけです。今日は常ならず大きな目線の話をしてみたいのです。(今真面目にHSPシリーズの執筆に取り組んでいるのでその合間に書く、これも「つぶやき」みたいなもの。重ね重ね述べてきたように、私の書くものは片手間気分、話半分でお聞き流しくだされば幸いです。)

みんな40億年後の地球を旅してくるといい

……先日宇宙に関わるとある動画を見ていて、こんなことをひしひしと感じたのでした。そこで、大きく揺さぶられた想いを文章に換えておきたく綴ることにしました。

時間というものは実体がないけれども確実に流れています。この世のあらゆるものは変化してゆきます。現実を直視すれば、人類の歴史そのものが、広大で深遠なる宇宙におけるほんの一瞬の出来事に過ぎないのですよね。

地球の気温が上昇しているとして……太陽の光が2%、3%……どんどん光量が増していくとして。そうなれば徐々に地球上の生物はこの地表で生息できなくなっていく。地球の平均気温は上がる一方。何千年、一億年、長い年月のなか、空気中の二酸化炭素が地球上の岩石に取り込まれていく化学反応が気温上昇とともに盛んになる。そのため植物が光合成するために必要な大気中の二酸化炭素が減り、植物は成長不可になる。食物を生みだしてくれる田畑がなくなり森も山も林も消える。今から六千年も経てば、地表いちめんサトウキビ畑になるという。作物の99%が絶滅してるというのにサトウキビだけは少ない二酸化炭素でも生育し得る特殊な植物のようです。地球一面、沖縄の風景みたいになっているのでしょうかね?
さらに二億年も経ち今から八億年後には、更に地表の気温が上昇し緑などどこにもなく、地上には海だけがあることに。海の水だけは変わらず、ふいごのように満ちては引いて、波打ち際では白い飛沫が上がっている。複雑な生態系を持つ動物たちも植物もとうの昔に消えたというのに美しい海が残っているなんて、この時点でとても不思議な心地になります。深海や地中では単細胞生物が息をしているのかもしれませんが。

さらに時は流れ10億年経ちました。もう海ですら消えて塩も干上がり、太陽の明るさは10%も増し地表の平均気温は47度。更に進んで28億年経つと、地球の平均気温は149度だそうで。37.5億年後、太陽の明るさは今より1.4倍、太陽の直径は1.2倍。1330度になった気温によりすでに大地は熱い溶岩の海と化している。地球上にかつて存在した心地よく優しい景色は、もはや忘却の彼方へ。青き地球? はて、そんなもの本当に存在したのだろうか。

幾星霜の時が過ぎ、さらに数億年経てば、青かった地球は燃えるような熱の星に変貌し、太陽の光度はおそろしく強いものになっている。39億年も経った日、地球から夜空を見上げれば何が見えるのでしょう。
この頃になると、地球がある「銀河」は、お隣さん──250万光年も離れている「アンドロメダ」とどんどん距離が近づいている。つまり地球という星の地表から見上げる夜空には、アンドロメダを巻き込んだ、輝くばかりの巨大なミルキーウェイが見えているのですね。おお……! この頃地球の一日の時間は46時間ほど、夜空には15時間も長い間星々が輝き続けているといいます。どれほどきれいな光景なんでしょうね? 想像しただけで全身が震え興奮してしまいます。生物の営みははるか昔に途絶えたというのに、地球の上空には、無数の星々だけが燦然と輝いているなんて……!! 美しさを感受する生命体が微塵も残っていないのに「美」だけは確固として存在しているなんて……なんということでしょう。(よもやこれを『美』としてよいのかすら判別できかねますね。)40億年後の地球には、生命の痕跡すらひとつも残っていないのです。

現在見えるこの光景が更に、迫るほどに大きく見える夜空とは……

やがて銀河系とアンドロメダ星雲は合体して「ミルコメダ銀河」という一つの銀河になるらしいです。その先は今の科学では分からないのかもしれませんが、おそらくミルコメダ銀河はさらに別の星雲と衝突、合体してどんどん変化を遂げていくのでしょうね。太陽系の地球という星から見える光景はその頃どうなっているのでしょう。途方もなさ過ぎてもはや言葉も浮かびません。

ひるがえって、いま私たちが暮らす地球上にこうも豊かな自然が存在する事実に改めて驚きを禁じ得ません。多種多様な生命が延々と巡る深き森があり、絶妙な生態バランスを保つ神秘の熱帯雨林があり、栄養豊かな食物を恵む滋養に富んだ畑があり、愛らしい実を次々結ぶ果樹園があり、小宇宙の如く謎を秘めた深海それと繋がる大洋、打ち寄せる波、さざめく樹々の葉、安らかな風が吹く高原、芸術作品のような模様を描く砂漠、はるか地平を見渡せる逞しい荒野、雄々しく神々しい山々、清らかで変化に富んだ渓谷、川、湖……地表に広がる大自然のなんと豊かなことか。蜜蜂みたいな小さな生物ですら地球の生態系に貢献している。自然界が織りなす生命維持の絶妙なバランスの上でその恩恵を受けて私たちは息をしている。……これがすべて消え失せる日が来るなんて、とうてい思えないですよね。でも現実を直視すれば、星は生まれ、やがて消えていく。宇宙の営みはそうなっているのです。
人類が発展した過程を思いみると悠久の歴史を感じるけれども、大宇宙においてはあまりに瞬間的なできごとに過ぎないのですね。どこかの星に住む知的生命体が宇宙の他の星系に暮らす知的生命体と出くわす確率もいわば「無」に等しいほど少ないわけです。瞬間が瞬間とニアミスすることすらない、それほどに宇宙は広いのですよね。

私たちは深遠なる宇宙の中の『一瞬』を生きている。言うなれば、私たちが意識で捉えるこの現実は実に奇跡そのものであり、この一瞬という『奇跡』の中を私たちは生きているのですよね。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」

チャールズ・チャップリンの名言の一つ

──誰かに嫌なことを言われた……私あの人に嫌われてるのかな? ……またいつもの失敗をした自分はなんてダメ人間なんだろう……今日は嫌なことばかり起きて最低最悪の日だった……大金を無くしたからもう人生終わりだ……社会的に抹殺されたからもう死ぬしかない……嫌なこと、辛いこと、やりきれないほど悲しいこと、後悔、屈辱、憤怒、怨恨、憎悪、非難、嫉妬……ルサンチマンに掻き乱される日常、悲哀や憐憫、諦めの念、諸々の負の感情、こんなものが如何にはかない瞬間の出来事であるか──これを、いつも心の隅に置いておきたいと思いました。同時に、達成感や充実感、喜び、幸せ、感動……これらがいかにはかない一瞬に過ぎないのか。かけがえのないものか。嘆いたり争ったり憎んだり疎んだりしている暇はない。自分や他者を責めたり蔑んだり貶めたりしている暇はない。やりたいことを躊躇ったり、善き行いを前に逡巡したり、失敗や恥を恐れてチャンスを不意にしたり、本当に……そんな暇ないのですよね。

生存適応という視点


社会的序列意識、人間関係における優劣、良し悪し、正誤、過不足という視点からの評価……そんなものにうつつを抜かす前に、見定めておくべき大事な視点があるのではないか、ということも最近強く思います。

人類が生存し子孫を繁栄させ、予測不能な様々な環境の変化に対応し存続していくためには、人類の個々に「ばらつき」を持たせる必要があるわけです。すべてが皆一様に同じ特性を持っていたなら、たった一つ好ましくない環境の変化により、皆が一様に同じダメージをくらい、同じ反応が起こる。つまりそれが大ダメージなら人類の生存そのものが断たれてしまう。性質のばらつきがあることで、ダメージを喰らう者と喰らわない者の分かれ目が起こる。存続の可能性が残る。

領地を拡大し支配力を増すために新たな環境へと果敢に乗り出してゆく「王族や戦士の感性」を脳に組み込まれて生まれてきた個体があり、同時に、乗り出す前に一旦踏みとどまりあらゆる微細な変化、些細な可能性を捉えて状況を慎重に判断するための「助言者の感性」を脳に組み込まれて生まれてきた個体がある。古今東西、人間が各地で創り上げた文明社会の中で、両者には『望ましい』とされる場面と『望ましくない』とされる場面がどうしても発生してしまう。一例として、資本主義社会の経済市場に組み込まれた会社や企業などの組織においては、実質的に後者はとても有益であるにもかかわらず、その価値はなかなか測られる機会が少ないというだけで『望ましくない』資質とされてしまう。その中で良し悪しの判断を下す一般的な価値観が生まれて拡がり、ほとんどの人間がその基準を感知して「他者」や「自分」を評価しながら生きている。踏みとどまる慎重さが、自己主張の低さ、非生産的、勇気のなさ、のように一見見えてしまうからですよね。

人類にとって本当は、どちらも等しく必要なのです。足らないように見えるものの裏側には「必要」が潜んでいる。たまたま現代社会において『発達障害』と判を押されているADHDなどがまさにこれなのかもしれませんね。日常が覆るほどの変化が人類に起きたとき誰よりも速く適応できるのは、実は今の社会で有能、有用とされているような人々でなく、一見注意力が足りないように見える多動性を持つ人々なのかもしれない。何事も言語化して意思疎通を図る社会においては上手く言語化できる者が勝者と見做されがちだけども、映像で物事を理解してしまうビジュアルシンカーたちが果たす役割も、意外な状況が発生したらとても有用になるに違いない。また歴史の中で目も醒めるような発明を成し遂げてきた人々の脳には自閉的傾向があるという見解も見逃せないはずです。
ばらつき、多様性を、良し悪し、優劣、正誤、過不足の目線のみで測ると他者への不理解はおろか、無用な自己卑下まで生んでしまいかねません。実際、繊細さや慎重さを人としての欠陥だと捉える浅はかな社会通念に自ら飲み込まれて生きている人々がいます。生存適応の視点を持てさえすれば、そもそも優劣などないということが直感でわかります。そこを直視するだけで無駄な劣等感を排除できるのです。……クローズアップで見る視点は状況に応じて必要な目線ではあろうけれど、人は誰しも物事を〝超ロングショット〟で見る視点も持ち合わせておくと良いのではないでしょうか。……そんなことをつくづく考えてしまう今日この頃なのでした。


どうも敬体常体の区別がその日の気分基準になりつつあり見苦しくてすみません。つぶやきなのに、また長くなってしまいました……。

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