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2020年度高校2年生に向けの終講の言葉

最後の授業の際に、一言、話をするということを決めており、過去にしたもの。受験学年になるということも前提にしたもので、割と内容的に深いことを言っているような気もしなくもないです。そろそろ終講の言葉を考える時期になったので、掲載しておきます。

終講の言葉

 今年度最後の授業です。皆さん、お疲れ様でした。今年度はコロナ禍と表現されるように、色々例年とは異なることが多かったと思います。
 とはいえ、一方で現代文の授業に限っていえば、芥川の舞踏会、中島敦の山月記、漱石のこころ、賢治の永訣の朝、そして鴎外の舞姫と、高校2年生で扱われる教材の全てを扱っており、例年と変わらないところがあるなあと。
 いやむしろ、例年と変わらなくて良かったと安堵する自分が居るのは事実です。
 ところで、皆さんと私との共通点があることを知っていますか。気づいたらなかなか鋭いというか、寧ろ賢しいと言えるかもしれません。
 皆さんがこの学校に入学した中学1年生の時、この学校に私も赴任してきて、高校1年生になったときから皆さんの学年を受け持つようになりました。
 共通点というほど強いものではありませんが、入学という区切れめにおいて皆さんとの何らかの接点や関係性や共通性があるという意味では共通点らしいものがあると言えるかなと思います。
 みなさんが入学した年、私が赴任したての時のことを様々思い出してみると、中学棟の生徒はやはりまだ幼さが残り、高校棟の生徒はやや大人びてきている子もいるなあという感覚が強かったです。
 中1の生徒も同じような印象でした。いや、寧ろ廊下で見かけたりした時は、少し前まで小学生だったという雰囲気すら、ただよっていたようなそんな感覚でした。
それから3年経ち、4年生になって2つのクラスを持つことになりました。片方はやんちゃな子がやや多いクラス、もう片方は高入生もいる真面目なクラスでした。成績的には前者は低く、後者は学年のクラス平均で常にトップ争いをするような優秀なクラスでした。
 とはいえ、成績に関係なく、どちらも楽しく授業をすることができていました。
 ただ一方で、まだ高校生らしくない幼さを残しているなあと思い、3年以内に大人になるかと少し不安でした。
 そして今年ですね。今年は既に触れたようにコロナ禍の影響で皆さんとの接点は例年よりもやや遅かったという点はありましたが、それを除けば割と例年通り、授業はできていたと思います。ただ一方で、やはり年度の前半は高1までの幼さが見えて、やや不安な部分もありました。
 そんな中、模試もいくつか受けたこともあってか、演習の時間が始まった後期になると、少しずつ受験生らしい態度をもった生徒も出てきて、大人びてきているなあと思えてきました。
 1年は短いようで長い時間です。いえ、もっと正確に言えば、人が変わるには十分な長さです。皆さんの成長を間近で、見てきた2年間ですが、人が変わり、成長するには十分すぎるように思えます。
 高校1年生の初頭の時の中学生の雰囲気が抜けきれないようなあどけなさの強かった姿勢から、いよいよ受験だと身構えつつある姿勢へと大きく変化していることを考えると、やはり十分すぎたと言えるかもしれません。

 ところで、皆さんの志望校は決まりましたか、努力目標は立てましたか。
 1年じゃ、無理とは思わず、まずは努力する。そしてその結果が出てきたときに、胸を張って志望校ですと言えるようになる。そして、母校ですと歓喜する。そういう段階的な自信と実力の付け方をしていっても良いのです。

そろそろ締めますが、最後に一言を言うのなら「諦めるな」、それだけです。
諦めることは誰でもできるし、簡単なことです。
もちろん、限界まで努力した後の結論なら、それは諦めたのではないから良いのです。
ではなく、何の努力もしていないのに、時間が勝手に過ぎて、実力がつかなかったみたいな言い訳をして、諦めるという行為をやめてほしいわけです。


「1年は短い、ただ人が変わるには十分な時間だ。」

この言葉を最後の言葉とし、来年の今頃、皆さんから吉報を耳にすることを楽しみにしています。
それでは、2020年度現代文の授業を終わりにしたいと思います。
皆さん、1年間お疲れ様でした。

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