Minako Uda

自分自身の中でだけでなく、無理せず何かを自分の外にも発信することが必要な気がして、書く…

Minako Uda

自分自身の中でだけでなく、無理せず何かを自分の外にも発信することが必要な気がして、書く場所を作りました。偶然のように見てくださった方にだけの発信となったらいいな。 こっそり大切なことを吐露できる場所がある……と考えると、ちょっと嬉しくて、ワクワクします((o(*^^*)o))

最近の記事

近々やりたいと思っていること

「noteを始めた!」と思った矢先に、な、なんと私は3月中頃に脳出血で倒れまして、3ヶ月も入院しておりました。1ヶ月間近くの朦朧とした日々を過ごし、「これからは車椅子生活かも……」と囁かれ、トイレにも自由に行くことが出来ず、リハビリの毎日を送るという日々を2ヶ月余り送り、病院の皆さんのおかげで、なんと(杖をつきながらですが)歩けるようになり、今は退院しております!!! この入院生活の3ヶ月と退院後の2ヶ月半は何もかもが初めての体験で、不自由な身体から知ったことで、色々なことを

    • どうして人を殺してはいけないのか_私考

      「人を殺してみたかった」 この言葉には悲しみしかない。 なのに、また目にしてしまった……。 長崎大学の学生が見ず知らずの初老の婦人を殺害して取り調べで言った言葉らしい……。 以前に、教師をしている友人が 「生徒が “どうして人を殺してはいけないんですか?” と質問してきたらどうしたらいいのか……」と嘆いたことがある。 「簡単だよ。いきなりその子どもの首を絞めて、“こうされたら、あなたはどう感じる? それが答えです! ” と、私なら答えるな。」と言ったら、 「それは無理……

      • 過去を変えることは出来ない。でも…

        「過去を変えることは出来ない。  そう思い知らされることが、  人生においてはたびたびある。  でも過去をどう語るかは変えられるし、  それによって未来も変えられるのだ。  _______エレノア・ブラウン これは、今日偶然に観た海外ドラマ『クリミナルマインド 14シーズン』(再放送)の最後に登場した言葉だ。 前世療法で過去(前世)にまで遡ってトラウマ的な「とらわれ」を治療する話題を連れ合いとしていて、いろいろ考えることがあったので、タイムリーな登場に、思わず「おぅ!」と

        • 呼吸

           呼吸  日々刻々 私は死に  日々刻々 私は生まれる  だから  いまを  私は生きる  息を 吸い  息を 止め  息を 吐く  息を止めた瞬間こそが  死と誕生の間(はざま)の瞬間  いま この時だけ 私は生きている  吸って 止めて 吐く  この間(はざま)の連続こそが「生きる」ということなんだ  そうか  なんて  単純だけど難しい法則なんだろう  「呼吸の息を止めた瞬間が『無になれる時』だ」と聞いたことがある。  OSHOは、  「お茶を飲んでいる時

        近々やりたいと思っていること

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          何気なく聴いてみたら、驚いた☆

          このところの気温の高低差の甚だしさはかなり身体にこたえたようで、何となくイライラしがちで、気分も言われもなくザワザワとしている。 こんな時はマインドフルネスか散歩なのだけれど、身体がシンドいと気が進まない。 そこで、音楽に助けてもらおうと、白羽の矢を立てたのは、コラ奏者のバラケ・シソコ様。 聴いたことのないものを聴いてみようと、YouTubeでふと見つけたのがこの曲。 聴き始めから「む!?」と身体が反応した。 静かなのに、エモーショナルなグイグイとした何かが私を惹きつけた。 気づくと、私は大平原にポツンとただ一人立ち尽くしている。 なのに、この音の中に居る私は寂しくない。 今出来ることは何もないのはわかっている。 立ち尽くしているだけでイイんだと、なぜか知っている。 動けるのなら、自由に動いてもイイけれど、むしろ、立ち尽くしているだけでイイんだと、なぜか知っている。 「出来ることを力まずにすればいい。流されずに自ら流れていくんだよ」と、 この音楽がそっと囁いてくれているような気がして、胸が熱くなった。 ふ〜〜〜っと、力が抜けていく。 「アザデ」とはペルシャ語で「自由」という意味らしい。(Googleで調べただけだから、真偽の程はわかりません。) ペルシャのパーカッション・トリオ(クラシック?)ケミラミというグループと、キューバのジャズピアニスト/オマール・ソーサとマリのコラ奏者/バラケ・シソコという組み合わせ自体に、この音楽の凄さでもあるのかしらん? 自然や大地(地球)の流れに、「普通でしょ?」と言わんばりに流れていくような「流れ」の素敵さに魅了されます。 それは、(自分でも不思議なのだけど)なぜか憧れに近い「懐かしさ」のようなものを孕み、私を包み込んで行く。 気づけば、借りてきた猫のように静まっている私の中。 それにしても、エモーショナルなのに、この底に流れている静けさは何だろう!? そうか、私たちは、自分の中にあるエモーショナルなエナジーの使い方を忘れているだけなんだな、きっと。 目先の身体、目先の感情に流されやすいから、批判的だったり否定的になりがち。 そこからは比較や対立ばかりに囚われて、静かに「観る」ことが難しくなっていく。 でもきっと、もっとその奥にある静けさと繋がっていければ、エモーショナルなエナジーは、違う働きかけをしてくれるのではないかな……と思わせる「なにか」を感じさせる。 この音楽の奥から立ち上がってくる静かな温かさと一筋の希望のように。

          何気なく聴いてみたら、驚いた☆

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          note始めます。

          長年ひっそりとブログを書いてきましたが 最後のブログとなるものを書いた後、父が認知症と判明し、バタバタと何かに追いまくられるような日々となり、ブログを書く余裕を失くしてしまいました。 父は3年前に亡くなり、母が一人暮らしとなり、その後は母のサポートの日々を送ることになりました。 父の頃よりは少しは余裕も持てるようになり、時々ブログも書いていましたが、 一昨年に母が癌でステージ4が判明し、すったもんだあり、再びブログがストップしてしまいました。 運良く良いホスピスと巡り合え、母

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