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みなちゃんのライフストーリー#2

皆さん こんにちは。
読んでくださって、ありがとう。「読んでいるよ」「次はいつ?」「コメントしたよ!」そんな言葉が私の励みになっています。
私の何かが伝わって、ぼんやり自分と重ねてみてもらえたら嬉しいです。これを読む事で何か自分の内側で沸き起こってきたら、その状態をそのまま感じてみて、自分の内側で起きていること、生きているを感じてもらえたら、嬉しいです。

兄弟と歳が離れていたせいなのか、家族のやりとりが変化していくのを感じてなのか、私は自分の世界に入ることの他に 家族に認めてもらうように何かをするようになっていきました。小さな時に注目を集めていたことを取り戻すかのように、「頑張り屋」の道を歩む事になるのです。
一番上の兄は、12歳上。父のような兄ような感覚で私の面倒見てくれました。高校に通う通学時、自転車の後ろに乗って保育園まで送ってもらった記憶が今でも微かに残ります。
二番目、姉はピアノも踊りも算盤も見事に身をこなし、スポーツ万能。いつも私の守神のような存在でした。事あるごとに私を側に置き、いつも一緒にいる感覚でした。でも、私は姉と同じ習い物をすることはありませんでした。
三番目、すぐ上の兄は6歳離れていたので、小学校1年生の時に6年生。とても頼りになる兄でした。たまに、6年生の兄と帰るのがとっても嬉しかったのを思い出します。

兄は野球を。姉はバスケットをしていました。私の記憶では、兄や姉の部活や大会には応援に行き、兄や姉の活躍を眺めていました。「応援する」ことが好きになるのはここから始まりました。


そして私は、1年生になる頃から 兄弟の意見もあって、スイミングに通う事になりました。兄弟初の未知なる習い物です。
「泳げないのは、学校に行ってから困るから」顔に水が掛かるのも嫌だった私を心配してのこと。初めは週に1回の練習が地獄のように感じました。しかも、一人で習うなんて初めてのこと。逃げられない状況に押されながら、新しい世界へ飛び込む初めての体験がスタートします。

私は、どんどん上達し、泳げるようになり、進級し、水泳の世界へ入り込みました。結果が出ることが面白くてたまらなかったのです。そして、結果を出す事で「兄弟に認めてもらいたい」気持ちがどんどん湧いてきて、自分のスペースを作ろうとしていきました。そして、水泳は私にぴったりの環境だったのです。水の中にいる感覚が、今まで階段前で過ごすことの変わりになりました。水の中は開放的で、自由。制限する枠もなければ抑えつけるものもない。伸びたり、縮んだり・・・私だけが感じる私だけの空間です。

その時は、兄弟の状態が変わって来ている事や 兄弟の心にある無自覚な痛みなどは知る由もなく、ただただ・・・私が私を認めてもらいたい私の気持ち良い水の中の感覚を満喫する。その一心でした。

水泳は、どんどん上達し、大会に出るようになりました。
初めて出た大会で、「次の大会では 私が1番になってメダルを取る」そうイメージを描き、確信しました。その時、イメージを伝える事で おかしな人と思われたくなかったので誰にも言わなかったけれど、ちゃんとイメージが降ってきていて、今考えると洞察だったのかと思います。そして、次の大会では見事に優勝メダルを手にし、小学校3年生の私は「イメージできれば、そうなれる!」確信を持つ事になりました。

スイミングの成績が良くなればなるほど、スイミングの練習回数が増え、母が私の送迎に手がかかるようになっていきました。朝晩。そうなっていくのと同時に、不平や不満の声が聞こえるようになるのです。「みな子ばっかりずるい。私(俺)たちは、自分で部活に行き、自分で帰ってきて、家の手伝いまでしているのにみな子だけ違いすぎる」・・・
兄弟の中で起きている葛藤、私が水泳に夢中になってしまい、私の心が家族になくなっていく事の寂しさ、そしてその時の母の状態。その母の状態に気がついて対応できる人が誰もいなかったため、どんどん兄弟間の溝が深まっていくのでした。出てくることなや表現は感情が先行してしまい、大切な部分の話、今自分が必要としていることを伝えるすべを誰一人母から教えられていなかったため、全てが叫びになっていたのです。「私を見て!理解して!」

母の状態に気がついたのは、兄が結婚し お嫁さんがやって来てから。
家族の間では、当たり前と思っていたことが 普通じゃなかったこと。
その原因は、母が育った環境がそうさせていたこと。父はその状況をどのように受け止め長年一緒にいたのか。父の寛容さや大きさを知ったのは随分後になってからでした。

続く・・・。

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