艶歌から見る光輝族④ ~まとめ~

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 長らくの拙い文章を読んでくださったありがとうございました。ここから先語るまとめは、だいぶいろいろ妄想こじらせているオタクの戯言になります。ぶっちゃけ、思うままに書いているのでまとまりがなく、矛盾も多く読みにくいと思います。読んで、「なんだこいつ…?」と思われるかもしれません。また逆に、詳しい方から見ると、「色々矛盾してるしおかしいぞ?」と思われるかもしれません。その前提で、もしお暇で、「まあヲタクの戯言でも読んでやるか」と思ってくださったなら、読んで意見をもらえると嬉しいです。

★陰陽説と光輝族
 愛憎SAGAの解説で陰陽説について触れましたが、実際夭聖の設定が陰陽五行説にがっつり当てはめて作られているかというとそういうわけではなさそうです。五行説に基づいてはそれぞれの属性同士の関わり合いや相反関係があるのですがそれが作中の夭聖たちと必ずしも一致はしていないように見受けられます。ですが、光輝族については、ある程度は陰陽説に絡めて設定されているのではないかと思います。

 まずそもそも前提として、別記事でも述べましたが、菱田監督のインスタライブ内で、『夭聖界はひとつではない、複数ある』という設定が明かされています。また作中の描写によると、プロキオンを女王として、シリウス・ベテルギウスを含めた三人が、作中の舞台となった夭聖界を作ったようです。木火土金水の五行の国を作ったのもそうです。いわばこの3人が創始者ともいえます。
 陰陽説とは、すべてのものが相反する陽のものと陰のものによって成り立っているという説です。例えば「太陽と月」「昼と夜」「表と裏」「左と右」など。私はシリウスとベテルギウスもこの相反する陽と陰の関係性にあると考察します。また、陽と陰はどちらが正しいとか、どちらが強いといったことはありません。ただ、片方がいないともう片方は存在しえません。

 愛と憎しみのSAGAの艶歌考察で、私は、「この世の全て」という言葉が引っかかりました。愛憎SAGAがチルカの蘭丸に対する愛憎を歌う歌で、それを「この世の全て」と表現するなら、まさに、シリウスとベテルギウスが陰陽で、世界を構成するものであることに繋がるのではないでしょうか。
 先程、陰陽説の例としてあげた「太陽と月」も、愛憎SAGAの歌詞に出てきます。『月のように 太陽の裏側ゆけば 絡みつく 愛憎の縁』と。愛憎SAGAの記事では、この部分の歌詞を、光に照らされた眩い立場から堕天したことと捉えていましたが、陰陽説に則ってみるとまた違う解釈もできます。陰陽説には陰陽転化という概念があり、簡単に言えば、陰が陽になり、陽が陰になることもあるという概念です。陽(太陽)のシリウスが堕天して陰(月)になっても、それでもなお、自分とベテルギウスの愛憎の縁からは逃れられない。

 少し話が逸れたかもしれません。次に行きます。

★光輝族にとって「愛する」こととは?
 結論から言います。私は一連の考察を通して、光輝族は、『愛することを使命として背負わされた夭聖』なのではないかと思っています。(光輝族はというより、シリウスとベテルギウスは、という言い方をしたほうがいいかも?)

 愛らんと愛憎SAGAの艶歌の共通ワードを考えましょう。どちらの歌も『愛の為』という言葉が出てきます。しかし使い方が異なります。蘭丸は、愛のために昇っていくだとか、希望(ひかり)たれだとか、自主的な意思を感じます。一方のチルカは、『愛の為 ただ愛し合い』と、どこか強制されているような節すら感じる言い方をしています。
 さらに言えば、トラシグでは冒頭から『愛に生き 愛に散る』と歌っています。事実、作中での二人もまさに「愛に生き愛に散って」ベテルギウスから蘭丸へ、あるいは、シリウスからチルカへと、愛に散り名を捨て生まれ変わったともいえます。
 光輝族と「愛」は切り離せないものなのではないでしょうか。無論、光輝族に限らず、この作品そのものが「愛の物語」なのですが。

 人間界でアイドル活動をして愛著を集める。とても理にかなった行為です。確かに一気にたくさんの愛著を集めることが出来ます。そしてその活動において、シリウスとベテルギウスは、まるで互いに愛し合っているかのようなパフォーマンスをしています。そうですキスです。さらにいえばあの体勢のキスは、先程の陰陽説にも関連する「陰陽マーク」に似ています。

 作中では特にあのキスで、一気にたくさんの愛著を集めていました。愛著は夭聖にとっては必要不可欠なもの。光輝族が、「愛する」ことを使命としており、また、夭聖界の根源で、陰と陽として「互いに愛し合うことを強いられていた」としたら?そもそもが生まれ持って相反する関係の二人で、互いがいないと存在できないので愛し合っている。いわば、互いに互いを愛しているのは呼吸のようなもので常識。でもベテルギウスだけは、その使命を越えた「愛」を抱いてしまったとしたら?シリウスがベテルギウスの好意に気づけなかったのは、気付くも何も自分たちにとっては常識のことだから、ベテルギウスがそれを越えた感情で自分を見ていたとはわからなかったのだとしたら?

 最終話の回想シーンで、ベテルギウスは涙ながらに「最初から何もなければよかったのに」と言っていました。この「最初から」とは、どのことを示しているのでしょうか。自分たちが夭聖界を作らなければよかったのに?そもそも自分達が生まれなければ、愛を知ることもなくそれ故に苦しむこともなかったのに?自分がシリウスを愛さなければよかったのに?シリウスが人間の女性を愛さなければよかったのに?

★まとめ

 ここまで読んでくださってありがとうございました。これらの仮説は、断片的に引っかかったワードをもとに私が色々と都合よく解釈した戯言です。この仮説が正しいとも思っていないです。
 ただいえることは、光輝族、あまりにも情報が少ない!少なすぎる!愛憎SAGAの考察で、この歌については他の艶歌と違って歌詞とリンクするエピソードがない、と書いておりましたが、これに関して、界隈の他の方々も指摘していらっしゃいますが、放送予定だったはずのエピソードが何らかの事情で削られているからではないかと推測します。もしくは、監督が作りたいと言っていた続編で、語られる予定のエピソードとリンクしているか。

 憶測はいくらでも語れますが、実際どういった事情があったのかは我々ファンの側は、公式サイドから語られない限り何もわかりません。

 情報欲しいですね!続編も欲しいですね!

 放送終了から一年以上が経過しますが、今も私の作品への熱や光輝族への熱は冷めておりません。自分でもびっくりです。何年かかってでも待つので、いろいろなことが明らかになるまでは、こうして、あれやこれやと考察や妄想を巡らせて形にして、発信していこうと思います。

 支離滅裂で読みにくい文章であるのに、ここまで読んでくださった方は本当にありがとうございました。あなたには明日めちゃくちゃ良いことがあります。この記事については余裕ができたらもう少し思考を整理したり文章を整えたりするかもしれないし、このままかもしれません。
 では。これにて一旦終了。