違いの条件

チューリングの停止性問題を見てみると、私達は自己言及の際、矛盾しないから矛盾するのであり、矛盾するから矛盾しないということを教えられる。自身の性質を保つためには、自身への言及を避け、他者を用意しなければならない。ただ、矛盾に矛盾かどうかを尋ねて本当に意図通りの答えが返ってくるかどうかは怪しい。下手をすると、自分以外のこの世界と自分を比較した時に、自分の行いがこの世界そのものに影響を与え、(なおかつ)この世界そのものが自分の行いに影響を与えるといったことが言えてしまう。拡大解釈して自分が創造主になった気にさえなってしまう。なおかつが抜けていれば当たり前のことを言っているように思えてしまっただろう(それでも当たり前のことを言っているところは拭えてない)。

そうなってくると違いの違い(違いの条件)とは何だろうか?停止性問題にはプログラムとデータがあり、データとしてのプログラム、つまりプログラムの入力に(データとしての)プログラムを入れるといった時に不都合が生じてくる。ところで、データとしてのプログラムがあるのなら、プログラムとしてのデータというのはあるのだろうか? 一考するとどちらもどちらともに取れてしまうが、自分としてのこの世界とこの世界としての自分という関係に似ている。言葉としてはデータとプログラムなのにもかかわらず、どこか同義反復してしまっているのだ。

こうして見ると、思考階層を貫く写像が見てとれる。この対応関係で自然言語とそれを指示する物自体の対応についての多層階層が出来上がる。普段の違うが、ある側面では上下に繋がりをもっていることがわかる(これも当たり前のことではある)。

感動したことがよくよく考えたら当たり前のことだったり、当たり前のことだったことが長期間失われていざ立ち返って見ると感動してしまったりというのはよくある。海外の風景を見て感動しても、当地の人々からしてみれば普段気で見飽きているというのもよくある。

科学の偉大な発見や発明が、そこから先の未来にとっては当たり前のこととして進んでゆく。価値観も歴史も同じように進んでゆく。一見して何事もないことが、あることを境にとんでもないつながりを見せることもよくある。では、この虚無な流れに、何か感動はあるだろうか? 抜け出でたこの文章のトンネルの先には、一体何が見えているというのか。

かいつまんでひょいひょい飛び跳ねるかのごとくだったが、こうなってしまっては本来の言いたかったことが曇ってしまう。しかしあなたの中にあるイメージが、少しでも違うと同じの領域や境界に変化をもたらせたならば、これ幸いである。


『違いの条件』