遠きを愛せ

ネット上の人たちをどうでもいいと思う存在、こう思うことに慣れてしまった人達はどれぐらいいるのだろうか? どこにもいない人だからといって平気で罵詈雑言を浴びせたり冷淡な態度をとってしまっていいわけではない。当たり前の話だが、心を守るに従って上のような態度になる傾向が根強くなる。

テレビや新聞に向かって、あるいは画面に向かって心無い言葉を言い放つことがあるだろうが、それがどういう結果と意味をもたらすのかおわかりだろうか? 日常のこの何気ないことの積み重ねが、巡る無限の習慣に囚われの身をもたらすのだ。見えない、特に聞こえないところにこそ、巡り廻る因果があるものなのだ。少なくとも、前世来世含め、これまでの人生で関わってきた人々と、ある種とんでもない繋がりがあることは、もう気づいている人もいるんじゃないだろうか? 

全世界の人類、いや、生命・物質そのものが一つの決まりごとの下に動いているように思う。私達は一つのアルゴリズムで動いており、それが時と場に応じてヘンゲしているのだが、突き詰めればやはり一つのアルゴリズムで動いていることに気づかされることだろう。たった一つのルールが概ね3つ当たりに増え出し、それらが互いに互いに巡り回っていることに気づかされることだろう。

囲碁の素晴らしいところは、バラバラに打っていても上手い人に虜にされるということだ。この世も何かしらのルールに従ってバラバラに動き回る人々を虜にする暗黙の流れがある。神の流れ、神の一手がある。どんなに奇策を練ろうが、それはもう長い歴史の上で読まれ尽くされている事柄。無理せずに流された方が身のためだろうが、それでも抗うならば、人生の定石に気づくべきだろう。視野の狭い村社会型の思考でネット上を徘徊することほど、ろくなことはない。でもどうやって村社会型の閉鎖的思考を解くことができようか? 

大事なのは囚われないことだ。観測し過ぎず、介入し過ぎず、かといって無関心になり過ぎず、醜くてもいいから優しい心を刻々と動かして回すのだ。世界は思った以上に、歯車よりもよく出来ている。だから案外、3つとはいえ気がつけないことなのかもしれないな。


『遠きを愛せ』