煽りの本質

リアルの口論もそうだが、ネットの口論は特に歴史に基づきながらなおかつそのパターンから逸脱するような表現法で口論を行う。つまり、よくある手法はあえて使わず口論を行おうとするところがあるのだ。これがその人自身のオリジナリティの表出と同時に、その人自身の渡ってきた歴史の表出でもある。言葉自体から発せられる氷山の一角にその人のひととなりが立ち現れるというのはそういう謂なのだ。

これはその人自身の特徴が特定できることもそうだが、そこには自己実現の競争が垣間見えてくる。誰かと口論になった際には何かしらの手法で言い負かそうとするわけだから当然と言えば当然である。人はよくあるパターンにはなりたくない。厳密には、そう見られたくない、思われたくない節がある。一方でドラマやアニメのセリフにはこの様なパターンはあまりみられない。役者はそれを受けるのが仕事だからだ。しかしセリフになくても演技にはあるものだ。決定論的なシナリオを持ったドラマにでさえ、演技だけはオリジナリティを要求されて然るべきなのだから。

リアルやネットの人達は単に一定の枠組みで観測を受けられたくないだけなのかもしれない。しかし長い目で見ればみんな役者気分で演じてきたことに気づかされることだろう。なぜなら本気の演技は没入から生じてくるからだ。常に無意識なアドリブを要求される現実であるからこそ、リアルタイムの変化が生じてくる。その一方で、積み重なっていく歴史によってその変化が緩やかに固まっていく。でもいつかそれに気づかされた、あるいは自分で気づいてしまったときには、そのハッとする感覚が、実はいつも生じてきていることにも気づいてほしいのだ。大きなことであれ小さなことであれ、そういうのはどこか感覚で処理されている。

世界の営みにもしばしばこのようなパターンがある。どうやらこのパターンだけは、不変ならしい。


『煽りの本質』