皆するから

剣は1人しか持つことができないが、二つ持つことはできる。同様にして、同種の剣を何人もの人々が持つこともできるが、剣の主は1人だけである。だからかな、剣の主にならんとせんがために、自らが剣となるのは。

クラスのクラスはクラスではない(名前の名前は名前ではない)。つまり、本来のそれとなるところのものではない。初めこれが難解である理由は2番目のクラスと3番目のクラスを無意識のうちに同一視してしまっているからというところが大きい。

先ほどの剣の話の「自らが剣となる」というのを次のように補足してみると事の趣旨がわかりやすい。
「自らが(神の)剣となる」

補足はしばしばあるパラメータの数を増やす。文字数だったり、ページ数だったりといった具合に。ときにそれがノードやら選択肢やらに変わってゆく。

認知の補足を無意識に行っている私達は量でいったら圧倒的に外界の情報の方が多いように感じられる。それらをどのように内省等で処理していくかによって次の道のりが補われてゆく。しかし蓄積されたパターンの世界に入ってみると、いつの間にか無限を扱えるようになっている。だから量で勝ってなくても、自ずと安心のとれた選択ができてしまったりする。

私らしく私らしく生きると言う割には、案外誰かの真似事をやっているものだ。すでに世の中ではこのような私らしさ、自分らしさというのが重要視されるようになってきている。しかし意外と皆がやっているからやっているに過ぎないのではないだろうか? 

孤独が注視されている中で、再び群れることを躊躇わなくなった人々もいる中で、内心からくる言葉遣いはどうやら誰かから影響を受けたものであるということを、実は知らない。仮にそうでなかったとして、常日頃から内なる言葉のチューンナップを怠らずに真に自分らしく生きているというのは、果たしてどれぐらいの人数いるものなのだろうか?

流行を見て、スラングを見て、数々の作品の流れを見て、大多数の意見や特徴を見て、それでも自分の判断に迷いなく自分が割合どれぐらいあるかなど、わかるはずがあろうか? 誰かが言っているから言うようになる。誰かが書いているから書くようになる。同様にして、誰かが剣を振るっているから振るうようになるのだ。

皆するからするのである。しかしみながみな、みなではない。


『皆するから』