少数派たれ

大多数が持つ意見はその時代に屈しているが、少数が持つ意見はそれよりも弱い。では、どうしたらその時代に屈さない少数派でいられるのだろうか? 一つの答えとしては孤独に勝つことであるが、もう一つは孤独を日常に据えることである。なぜなら、孤独もまた、時代に屈するからだ。 一見逆のように思えるが、孤独もまた、孤独な人を救いたくてそこに居座るのである。

団結こそ孤独に打ち克つものはない。故に孤独は孤独に生きるしかない。なので孤独もまた、孤独な存在を探すのである。この世はそのようにできている。

そういうもんだと受け入れ続けることが大人になることだと、いつ頃から気づけただろうか? そこに疑問を投げかけるものの、無限にループすることを嫌う人類は、しばしば同じことを繰り返さないように、パターンとして受け入れてしまう。しかしそれがなぜ、どのような仕組みで、とまで考える人は非常に少ない。そんなこと考えたってわからない。簡単にはわからないから、忙しくない誰がが答えてくれるのを待っている。でもそのくせ、その答えにいちゃもんをつけたくなる。

価値観は人それぞれ、価値観の押し付けはよくないと言いながら、過去に何度も全体主義的政治が為されており、今でもその名残が深く刻まれ、そう簡単には治らないようにできている。所詮は恵まれた自由人の戯言と思っておけばいい。

苦しければ人は平気で少数派として引きこもることだろう。本質的に利己的だからだ。苦しくなければ平気で人を助けようとするだろう。本質的に開放的でもあるからだ。単にこのサイクルに気付きたくないのだ。人は繰り返し体感するのをひどく嫌う一方で、永遠に苦しまずに生きる方法を探し続けることに対しては苦しみを惜しまない。つまり、苦しみを嫌わないことがある。

厳しい人は無知である。時代のせいで忙しくてそれより上手く教える方法を知らないからだ。厳しい態度をとる人ほど、それ以外の方法を知ろうとしない。しかし厳しさは強さを兼ね備えている。だから統一に役立ち、なにが苦しく何が嫌いかさえも麻痺させることができる。同様に、何が楽しくて何が好きかさえも。

世界が厳しいならば世界は無知なのかもしれない(無垢と言った方が正しいのだけれども)。無知な美しさを兼ね備えていたのが世界ならば、シンプルさは時にして厳しさを生み出してしまうことになる。だから生まれながらに弱い私達は、自身の苦しみや外界の厳しさを知っているから、複雑なことをして厳しくない教え方で世界を説得してきたと言えるのかもしれない。でも人類はシンプルに世界を道具にしてきた。間接的に厳しく世界に訴えかけてきた。今でさえお互いに厳しすぎることだろう。だから未だに宇宙のことなど、複雑な世界さえも、わかりゃしない。

もしかしたら神様は、厳しさの中の優しさで、皆々なんとかやってけると思ってたんじゃなかろうか? 複雑性をシンプルに扱えるようになったら? シンプルさを求めつつも何かを隠したい時は優しく複雑さを創り出すものだ。もし人体が複雑でか弱いのならば、人類は本来利己的であっても優しくて愛されてきた存在なのではないか? 学びを得る理由が優しさを得る理由と等しく、この世を生き延びる理由が、より優しい世界でなおかつシンプルさ美しさをも兼ね備えてきた素晴らしい世界を創り出すものなのだとしたら? 

しばらくはみなみなが協力して生きてくことはできそうにない。利己的に、間接的に、開放的に、徐々に時間をかけてやってくしかないのだ。本当のところ、私はもう人類は思考の限界にきてるようにも思えるのだが。教育にしたって、複雑なところまで踏み込むには多彩な知識と教養が要るものだ。専門教育が本当にいいかどうかはわからない。ただただ、シンプルな脳で厳しく世界にコミュニケーションし続けてしまう不器用な心を創り出してしまうのは、疑う余地がない。

でも私は思うのだ。孤独はきっと、全知全能で優しいのだと(まだまだ私達にとっては非常に厳しいのだけれども)。


『少数派たれ』