音楽と時間

ゲームをプレイしている時、好きにかけてる音楽が終わるとともにゲームも終わることがある。これを体感するたびに偶然の所作を感じられるし、なんなら自分がこうして生きてきた意味さえも体感してしまう。「ああ、こういうことだったんだなあ」と。ところがそういう体験を繰り返すうちに慣れてしまい、感動さえするものの、初めての頃とは小さな体験に収まる。当たり前とまではいかないが、他のことに集中して無意識的なところに意識がいるときになるのだから、決してやろうと思えばできるというものでもないわけだけども、まあどこかで会える一期一会のようなものと思っておいてほしい。

物理学では時間(の矢)は存在しないという議論がある。でも意識無意識ごと運ばれていくこの流れやパターンをどう説明するのかまでには至ってなさそうだ。まだまだこの世の中には偶然で溢れかえっている事象が多くあるということだが、それぞれが織りなす交差点を時間抜きでどのように説明すればよいのだろうか?

かつて存在しなかったものが発明開発によって出来上がっていく。物事には何事にもタイミングがあるそうだ。戦争によって技術が進展していった歴史があるのも事実だ。その中で出来上がってきた音楽と時間は、きっと私がゲーム中に聴いてる音楽のそれとはまた話が違うと思われるかもしれないけれども、私でさえ幾度も経験してきたこのミュージックリーサルを、他の人たちも体感していないはずがないと信じたいのだ。

音楽が終わるとともに試合も終わる。まるで山登りを終えた後に聴いてた曲が終わるかのよう。これほど素晴らしい偶然がこの世にありながら、人類は環境破壊と戦争に勤しんでいるのだから。当分、理性はこの辺の知識を持つことなく進んで行くことだろう。

それでも私は信じたいのだ。このような偶然の織りなす世界を、私以外の人達でも感じてはいないかと。案外、偶然というのは私達と同じく複合的な生命なのかもしれない。時間的な生命とでも言っておこうか。

これはコミュニケーションのタイミングにも現れてくる。探してはいないが、統計的手法で音楽の趣向とコミュニケーションのタイミングについての考察論文があれば、希望がみえてくるのかもしれないな。


『音楽と時間』