謎の彼方に目を凝らせ ~ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.4―犯人は二人―
深き闇と眩い光が、謀られた運命に引き寄せられ、ついに相まみえた。
決して後戻りできない道が、鮮やかな緋色に塗られていく。
「ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.4―犯人は二人―」(通称・モリミュ)が先日ついに幕を開けた。
2021年8月のOp.3から約1年半ぶりのモリミュは、原作マンガ『憂国のモリアーティ』でいうと9巻~12巻の内容を扱っている。
平等な社会を目指す議員・ホワイトリーをめぐる「ロンドンの騎士」。
ジョンの婚約者メアリーが持ち込んだ謎「四つの署名」。
そしてそれらふたつのエピソードの裏で糸を引いていたミルヴァートンと、ウィリアム、シャーロックが三つ巴で対峙する「犯人は二人」である。
ネタバレ感想を後に回し、ネタバレなしの感想をまず述べるが、シンプルに結論を言うなら「今回もモリミュはすごかった!」
あのストーリーが難解で複雑な原作を、演劇作品として見事に構成し直して、尚且つちょっとした話の隙間を埋めるオリジナルのシーンや教養ネタも混ぜてくる。その愛と美学と熱量に溢れた脚本演出は、常に観客の期待を大幅に上回ってくる。
高い技術を必要とするであろう、今回も超絶難しそうな曲の数々。それを歌いこなす俳優陣。
どこを取っても実に見事。
待っていて良かった。観に行けて良かった。この作品が上演される時代に生まれて良かったと、大げさではなく心から思った。
……と、こんなことを言って手放しで絶賛しているが、実は私は今回のOp.4、観に行く前日の朝くらいまで、不安で仕方なかったのだ。
これまでの3作は、とてもとても面白かった。
Op.2、Op.3のときに私が書いた感想をご覧いただいた方なら、その傾倒ぶりについてはよくご存知だろう。期待値をどれだけ上げて臨んでも、それを超えてきてくれるモリミュのことを、信頼していたし愛していた。
だが、過去作が最高であったということは、次作も最高である可能性の担保にはなるけれど、最高であることの絶対の約束ではない。
特に今回は、キャスト変更があった。私が贔屓に贔屓を重ね掛けして見守っていた赤澤遼太郎くんのフレッドが卒業という形を取って今作から抜けた。それにボンドもいない。パターソンもいない。マイクロフトもいない。原作において今回のストーリーに関わるレギュラーメンバーの数人が、不在なのである。
元より、原作の中でも特に各人の立場や心情が複雑に絡み合うストーリーである。一体どうなるのだろうか? 物語の進行が、彼らの不在によって不自然になりはしないだろうか? そもそもあれだけの内容を、3時間程度にどう収めるのだろう?
そんな不安が芽生えてしまった。
これは私の悪い癖で、期待を膨らませているうちにぶくぶくと肥大させすぎて、己の中で持て余して、勝手に気持ちが引いてしまう。
信頼していないわけでは決してない。ただ、大好きで特別な作品だと思えばこそ、それがもしも期待通りでなかったらどうしようと、わずかにあり得る可能性を恐れて身構えてしまうのだ。
正直、初日が近づいてきても純粋に「楽しみで仕方がない!」と思えなかった。そう思うには、モリミュはいつの間にかあまりにも思い入れの強すぎる作品になってしまっていた。
しかし、Op.4を観に行く前日にOp.3の円盤を見返しているうちに思った。
もし私の期待通りでなかったとしても、それはそれで良いのだと。
最新作が肌に合わなくても、これまで最高のものを見せてきてくれて、それに夢中になれたという過去は、事実は変わらない。これまで好きだったという思いまでもが変わるわけではないのだと。だから安心して観に行けばいい。
今回の作品を万が一、好きになれなかったとしても、それは別に構わないんだ。
モリミュは私にとって、きっとこれからも特別な作品だ。たかだか一度合わなかったくらいで嫌いになるような存在では、もはやないのだから。
こんな悟りを開くに至り、ようやく取り戻した心の平穏と純粋な期待を胸に、私は新歌舞伎座に向かった。
1年半ぶりのモリミュの新作は、抱いていた不安を吹き飛ばして余りあるほどの迫力に満ちていて、一音一音にビリビリと鼓膜と心を震わされた。
好きになれなかったらどうしようなんて、全くの杞憂だった。どうしてそんなつまらぬ不安を芽生えさせてしまったものだろう?
私と同じように、「前回までは面白かったけど、今回はどうだろう?」と不安の欠片を抱えている人がもしいるならば、どうか安心してほしい。
これまでがそうであったように、モリミュは今回も、極上のミュージカルだった。
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※ここから先は、Op.4および過去公演(Op.1~3)、そして原作コミックの既刊(2/4発売の19巻も含め)のネタバレを含みます。
ネタバレなしで観たい方や、原作の先の展開を知らずにOp.5を観たい方などは、どうぞご注意くださいませ。
観る前に読むことは、あまり推奨できません。
ちなみにすごく長いです。Op.3の感想と同じくらいには。
また、これまでの感想をお読みの方はご承知かと思いますが、私の感想はすぐ脇道に逸れる上、牽強付会の妄想じみた持論を好きなように展開します。
迷走やこじつけや深読みが苦手な方には、あまり向かないと思います。
苦手だと感じた方は、どうぞご無理をなさらずに、そっと画面をお閉じくださいませ。
あくまでも一個人として、ただの作品ファンの観点から書いた、趣味の感想です。
ここで書いた私の解釈や受け取り方は、正しいわけではありません。
むしろ、盛大な勘違いに基づいて解釈をして、間違っている可能性もあります。
なので、自分の考えと違うと思われる部分も多々あるかと思います。「こんなこと考える人もいるんだな」程度で読んでください。
そして、先にお詫び申し上げます。
普段の舞台感想ではこのくどい長文を読んでくださる皆様へのサービスも兼ねて、皆様どなたかの最推しであるプリンシパルのキャストさんお一人ずつの感想を述べるパートを最後に作るのですが、今回は諸々に余裕がない状態なので、そのパートを削らせていただいています(代わりに文中に短いながらも散りばめるようにはいたしました)。
自推しを褒める他人のまとまった感想をお求めの方は、どうぞ次回に期待しておいていただけたら幸いです。
そしてそのような事情で、細かいところに言及しきれておりません。江中の感想を楽しみにしてくださっていた方、すみません。
次は調整をしくじりません。
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さて、今回のOp.4、本当によくぞここまでまとめてくださった! という密度であった。
シリーズものになってくると、前作が最高に盛り上がったところで終わったのに、次作が始まるとまた「前回の軽い説明から始めて再加熱」というリスタートの必要に迫られる。せっかく高まった熱は、次作を待っている間に、どうあったって温度が下がる。
これはシリーズものの宿命であり、避けられないし自然なことだ。気持ちだって水と同じように、ずっと沸騰し続けていたら、蒸発していずれ尽きてしまうものだから。
しかしモリミュOp.4は冒頭から、前回のOp.3を観たときに感じた昂りを、私たちに瞬時に取り戻させた。
モリミュの定番である民衆の歌から始まった曲は、<犯罪卿>のことを貴族と平民が口々に語る流れに繋がっていく。
――「英雄か悪党か 義賊か犯罪者か <犯罪卿>とは何者か?」
この歌には、最初からドキッとさせられた。
今はまだ、身分の差によって<犯罪卿>への評価は正反対だ。階級制度が生み出した分断は、同じものを真逆に見せかける。
しかし、今は評価が分かれていても、そう遠くない未来で、<犯罪卿>の評価はひとつに定まる。
<犯罪卿>は全ての身分の者にとって共通の敵となる。身分の差が生んだ分断を超えて、人々が手を取り合う平等を実現させるために。
その「さだめのとき」がいよいよ近いことを予感させる、胸をざわつかせる歌だ。
続いてシャーロックが登場し、その正体がウィリアムだと確信しつつあることをほのめかしながら「<犯罪卿> お前を必ず捕らえる」と歌い上げる。しかしその決意は決して勇壮な探偵としてのそれではなく、どこか曇って逡巡を滲ませる。
さらに曲はウィリアムに移り、ここでまたドキッとさせられた。
ウィリアムが「<犯罪卿> それが僕の名だ」と歌うのである。
これまで、<犯罪卿>とはジェームズ・モリアーティのこと――アルバート、ウィリアム、ルイスの三兄弟を表す概念であった。
しかし、ウィリアムは自らはしごを外そうとしている。自分ただ一人がその罪の名を背負い、愛する者たちをこれ以上共に歩ませないために(この決意をうかがわせる描写は、Op.4の端々に存在していた。いかにもOp.5「最後の事件」を見据えての伏線が丁寧に張られていることを感じた)。
この歌を聞いていると、その悲壮な覚悟が伝わってくるから、切なくなるし、苦しくなる。
このシャーロックとウィリアムの曲には、今回のモリミュの天才フレーズが詰まっている。モリミュは毎回、天才フレーズを生み出すのが上手い。
まずOp.2で生まれた「ウィリアム(ウィル)/ホームズ」の音に掛けてある「I will / I hope」。
これはOp.3、そして今回のOp.4でも、非常に重要なキーワードとしてウィリアムとシャーロックの間で歌い交わされていた。このフレーズの発明は、この作品の宝だと思う。
さらに「罪深き僕の魂を 君に捕まえてほしい」。
これに関して、ごちゃごちゃ感想を言うのは野暮というものだろう。
敢えて俗っぽく単純な語彙に頼ってしまうが、純粋にエモい。エモのかたまりなフレーズだ。
このフレーズの美しさに感動しなかったモリミュファンは、多分そうそういないと思う。
あと個人的には、シャーロックの歌った「謎の城」というフレーズが印象に残った。
シャーロックがその言葉を口にした瞬間、天を突くようにそびえ立つ高い高い塔を持つ城を、私は劇場の中に幻視した。
精緻なれど堅牢なその城の、入口は狭い。
内部に敷かれた美しい黄金比を描くらせん階段は果てしなく長く、上れども上れども終わりが見えず、挑戦者たちを迷わせ、挫折させ、ふるい落とす。
しかし、そのてっぺんの、かつて誰も辿り着けたことのない場所に「心の部屋」があることを確信して、振り返らず、下を向かず、ひたすらにその場所に――同じ地平に至ることだけを考えながら、シャーロックは上り続ける。
どれだけ高くても、どれだけ困難でも。城の一番高いところで、孤独の部屋に閉じこもった男がいることを知っているから。
同じ地平に至って、同じ景色を見るために。
他にも印象的な数々のフレーズがあったが、「その場所」をがむしゃらに目指すシャーロックの鮮烈なイメージを掻き立ててくれた「謎の城」が、私は今回一番のお気に入りだ。
こんな数々の天才フレーズが冒頭から並べられて、メインテーマが始まる前なのに既に満足感が凄まじく、1幕見終えたくらいの気分になった。
Op.3の終幕のとき劇場に満ちていた、「最後のはじまり」を迎える緊張感。次作への期待と、ついに最後が見えてきたことへの一抹の寂寥。
そんな気持ちを観客が取り戻したところで、「裁判記録をミルヴァートンが持ち出した」というところから物語は動き出す。
この裁判記録に関する、原作9巻の「ロンドンの証人」のエピソード。本来は、三兄弟の過去の詳細を知らないボンドに語るという形を取って、『ヴェニスの商人』の世界一有名な裁判の判決をひっくり返した少年期のウィリアムの才知が語られる。
そして同時に、ミルヴァートンがウィリアムの入れ替わりに気付くエピソードにもなっているため、このエピソードを抜かして物語を進めることは難しい。
しかし、事情を語られるべきボンドはいないし、過去話を詳しくやっていては、何時間あっても尺が足りない。
どう処理するのだろうと思っていたが、「貴族相手の裁判を起こして勝った」「三男の人物像の変化から、火事で入れ替わりが行なわれたと推測される」という最も重要な情報だけを残し、さらっと話を進めていて、省略の仕方が何て上手いんだろうと思った。
――モリミュは、構成の都合上削らざるを得なかったエピソードに対するフォローが、いつも丁寧だ。
今回、この「ロンドンの証人」の詳細の他に削られた原作該当巻におけるエピソードは、お茶会として人気の高い「モリアーティ家の休日」。シャーロックがディオゲネスクラブのマイクロフトを訪ねる「闇に閉ざされた街」。そして「犯人は二人」中の結婚詐欺のくだりである。
物語のテイストの違うお茶会が削られたのは、無念だが妥当だ(しかし、どこかで改めてやってくれないかとは思っている。ぜひやってほしい)。
そして結婚詐欺のくだりも、要は「ミルヴァートンの別荘の場所を知る」ことが目的であり、元から調べがついていることにしてしまえば、飛ばしてもストーリーの進行に決定的な影響は及ぼさない。3時間という尺に収めるためなら、やむなしと思う(それに、語り部であるジョンが、メアリーの手前隠したかったエピソードだから披露するのは省かれた、という見方もできなくはない)。
しかし「闇に閉ざされた街」は、シャーロックが「<犯罪卿>=ウィリアム」説を初めて誰かに話す、そして「望む形で捕まえたいなら急げ」「道を誤るな」と釘を刺される、「犯人は二人」前の非常に重要なターニングポイントだ。
マイクロフトがいない時点で、この重要エピソードが飛ばされることは薄々察していたものの、このエピソードなしで話が問題なく進むものだろうか? と私はずっと思っていた。
だが、そこは西森さんの手腕を以て、また「舞台演劇」という形態に助けられ、クリアされていたように思う。
このエピソードで最も重要なのは、ひとつは「<犯罪卿>を望む形で捕まえたいならタイムリミットは近い」こと。これは「四つの署名」の中で、政府がの特別対策委員会を設置したという情報が語られたことでクリアされた。
そして重要なもうひとつは、「シャーロックが『<犯罪卿>=ウィリアム』説について揺るがぬ確信を持ちつつある」ことである。この点については、1幕から「お前が俺の思うお前であったなら」と独白的に歌うことで十分にカバーされていたと思う。
舞台演劇というのは、ドラマや映画と違って「独白」を語らせやすいという特性がある。相手がいないまま心中を口に出し語る人間は、現実ではそうそういないものだが、舞台演劇の装置の中では、それが非現実的だと見なされず許される。
マイクロフト不在でも、モリミュは舞台演劇の強み「独白」、そしてミュージカル最大の強み、心情を音に載せられる「歌」を使って、シャーロックの持つ確信を要所に挟み込み、ごく自然に観客に共有した。
無論、マイクロフトを出せたなら、それに越したことはなかっただろう。マイクロフトは、これまで推理力でシャーロックを常に負かしてきた男である。下手な推論を語ろうものなら、推理の甘さを指摘されるであろうに、原作のシャーロックはウィリアムの名を出すことを躊躇わなかった。
――それでもシャーロックにとって、「彼の名」を口に出すことに関してだけは、独白であろうが相手がマイクロフトであろうが、その重みはきっと変らないと思うのだ。
他のどの謎よりも執着し、ずっと思い続けてきた相手だから。
たとえ独白であろうと、その名を間違うことは決してあってはならないと、シャーロックは思っているに違いない。
【ロンドンの騎士】
ストーリーのことに話を戻す。
モリアーティ陣営がミルヴァートンを目下の敵と見定めると同時に、話はホワイトリーをめぐる「ロンドンの騎士」へと入っていく。
ホワイトリーが護衛の警官を選ぶシーンでは、パターソンの不在をレストレードが埋める形に変更するのだろうとは思っていたが、ちゃんと台詞として「主任警部はあいにく別件で」とフォローしてあったことが、とても嬉しかった。
前回の感想をご覧の方はお察しの通り、私は前回、輝馬さんのパターソンにすっかり心を奪われてしまったので、今回のメンバーにパターソンがいないことを、ずっと残念に思っていた。
しかし、その一言があるだけで、「別件で不在」なら仕方ないと納得させられた。それに、モリアーティ陣営のシーンで「パターソンから報告が」という台詞があり、パターソンが手掛けている「別件」が他ならぬウィリアムのための働きなのだと教えてくれた。
Op.3のときも、221Bのシーンでハドソンさんの不在を上手くフォローする芝居があったが、「今ここに姿がないだけで、この世界に、舞台の中に存在しているよ」とはっきり示すようにこちらに語り掛けてくれることが、ファンにとってどれほど嬉しいことか。
また、話が進んでどんどんシリアスになる中で、護衛選びのシーンでお約束のように、レストレードの髙木さんが笑いをもたらしてくれたのはホッとできた。
髙木さんは話の腰を折らない、誰かを下げることもない、そして内輪ネタに走らない、コミカルで親しみのある笑いをいつも与えてくれるから好きだ。レストレードが護衛候補として端に立っているだけで面白いのなんて、完全に才能でしかない。
Op.5でのレストレードは、どんな姿を見せてくれるだろう。今から楽しみで仕方ない。
さて、話は進んで、ウィリアムたちはホワイトリーを「試す」ことを決める。
このシーン、おそらく原作にはなかった(はずかと記憶しているが、あったならすみません)「そうなれば、オリバー・クロムウェル以来の王政廃止」という台詞がサラッと入ったのには驚いた。市民革命の旗手が生まれると国がどうなるかの説明として、あまりにも分かりやすく的確だ。
市民からの人気と人望を一身に集めるホワイトリーは、真の平等のために無私の献身を誓った、清濁併せ吞みながら志を貫ける人間か。それとも人気があることを利用して、平等の旗印を掲げ、市民革命を煽動し国をいたずらに荒らさんとする野心家か。
もし前者であるならば、ウィリアムたちと目指すものは同じになる。そして改正選挙法案の通過という正攻法で大英帝国の不平等を是正する道筋を作れるなら、ウィリアムたちの「犯罪によって人心を操り、階級社会の歪みに気付かせ、正す道を探させる」計画は要らなくなるかもしれない。後ろ暗いところのない正義は、必要悪を不要に変えるのだ。
人を破滅させる愉悦を好むミルヴァートンと違い、ウィリアムは好んで犯罪に手を染めているわけではない。ならばホワイトリーのやり方でもしこの国を変えられるというならば、<犯罪卿>としての活動を止めることができる。ホワイトリーの台頭は、心痛めるウィリアムにとって、希望であったかもしれない。
しかしながら運命は、優しい結末をウィリアムに与えてくれはしないのだ。
――この辺りの展開は、原作でも、一読しただけでは話を把握しきるのが難しいように個人的には感じている。ホワイトリーの真意と、ウィリアムたちの理念、貴族院の意向と、ミルヴァートンの思惑。そういったものを個々に理解していないと、うっかり話に振り落とされてしまう(私は最初そうだった)。
しかし、モリミュはこの難しい展開を、原作に沿いつつも核となるエッセンスを上手く抜き出して、分かりやすく組み立て直してくれていたように感じた。
それぞれの立場を観客に理解させつつ、今何が起こっているのか、誰が今何を思っているのかが、スッと頭に入ってきた。
(無論、これは私の主観でしかない。原作を何度も繰り返し読んだからこそそう思うのであって、やはり初見の人には情報量が多くて整理しきれない可能性を残すエピソードだと思う。だが、演劇としておそらく限りなく理想に近い分かりやすい形になっていたのではないか)
そして、続くシーンでの、モランから始まるモリアーティ陣営の歌。
ここは原作50話の「最後の事件」の展開(ウィリアムを死なせたくないと主張するルイス、フレッドと、ウィリアムの計画だけは絶対崩すなと釘をさすモラン)を彷彿とさせた。
今回の話は、そこかしこに「最後の事件」の予兆が散りばめられていて、原作の先の展開を知っているからこそ、何度もハッとさせられた。
そして、今回は最後に各キャストさんについて語るパートを作らなかったが、何も言及できず終わりたくないので、ここで手短に述べてしまう。
まず、井澤モランの声は回を重ねるごとにキャラクターに馴染み、甘やかで、それでいて豪快さも失わないのが良いなと思う。これまでの過去作では、力強さを押し出すような曲が多かったが、今回は繊細且つ一途な心情という一面を見せてくれた。ミルヴァートン邸での銃撃戦のシーンは、大柄なお身体が機敏に動き回る狙撃手としてのアクションが格好良く、目を奪われた。「最後の事件」でどんな演技を見せてくださるのか、いよいよ楽しみになった。
一慶ルイス。もう、非の打ちどころのないルイス。声にますます磨きがかかり、さながら弦楽器のようである。去年「あんさんぶるスターズ! THE STAGE」を観に行った際も、一慶くんの演じる北斗が本物すぎると思ったが、キャラクターそのものだと観客に思わせながらも、ご本人が完全に消え去ることなく、キャラの中に不思議に溶け合い、共存し、高めあっているように見えるのが大好きだ。
そして長江フレッド。変更後のキャストになる重圧の大きさを、私は到底想像できないが、よくぞ引き受けてくださったと思う。私は前フレッドをとても贔屓していたので、「新しいフレッドを好きになれるだろうか」と最初はちょっとだけ心配していた。だが歌い始めた瞬間に、ああ、大丈夫だと思った。物静かだが熱さを持つ、芯の通ったフレッドだ。大阪の後、配信で観たところ、確実な「進化」を感じた。
話を戻そう。
ホワイトリーの人間性を確かめたモリアーティ陣営は、ホワイトリーに「貴族院ぐるみの不正の証拠」という、戦うための武器を与える。
この場面で、ふと気付けばピアノの境田さんがピアノ前からいなくなっていて、袖に捌けたのだろうかと思ったすぐ後に、私はその行先を知ることになる。
いつの間にか舞台の奥に移動していた奏者が、オルガンを奏で始めたのだ。
オルガンの音に合わせてアルバートが歌い始めた曲は、讃美歌を強く意識したメロディラインで(曲終わりが讃美歌の終わりの「アーメン」を歌う音階であったことからも、「アルバートが救世主たるウィリアムの『みつかい』の立場で、善き人を奮い立たせんと歌うための讃美歌」として作曲されたのだろうと思った)、久保田さんの木管楽器のような柔らかさを持つ品の良い歌声と讃美歌風の旋律、オルガンの音色が、奇跡のマッチングを見せていた。
「ピアノとヴァイオリンの生演奏」が売りのモリミュで、ピアノの親戚であるとはいえ、こんな飛び道具が出てくるとは全く予想していなかった。
その工夫が素直に面白く、嬉しく感じた場面であった。
久保田アルバートの柔らかい声に寄り添っていた輝くようなオルガンの音は、しかしミルヴァートンの歌の伴奏になった途端、激しく濁った印象へと一変する。
先ほどと同じ楽器が出している音だと思えない、やさしく美しいものが汚されてしまったかのような、(良い意味での)不快感。プレッシャー。
藤田さんのミルヴァートンの歌声はOp.3のときから、とんでもなく力強い美声でありながらざらついた感触を持ち、私たちに不安と恐怖を与えてきた。
その強力な歌声が、Op.4でさらに迫力を増し、圧倒的邪悪を音で見せつけてくる。
Op.4の成功は、ミルヴァートンがどれだけ「絶対的で魅力的な悪」だと観客に思わせられるかどうかに懸かっていたと言っても過言ではない。
その点、藤田ミルヴァートンは、おそらく望みうる限り最高のミルヴァートンを見せてくださったと思う。
また、アンサンブルさんが演じるミルヴァートンの部下たちも、ミルヴァートンの邪悪さを増幅させていて非常に良かった。
ハリーとゴズリングのビジュアルの再現度や立ち回りなどについては勿論のこと、何といってもラスキンである。
実は私は去年初めて「MANKAI STAGE『A3!』」(エーステ)を観に行っている。原作ゲームはやっていないが、友人に過去作の円盤を借りて履修し、2022年の春単と夏単を劇場で観た。
その夏単で、秋組の追加キャラ「泉田莇」くんの役で出演なさっていた、吉高志音くんが印象に残った。
莇くんの出番は少なかったものの、どこか目を引くところのある、雰囲気のある方だなと思っていたが、夏単観劇から数日後、モリミュのアンサンブルさんが発表され、その中に吉高くんのお名前があるのを見て「あの莇くんが!」と驚いた。
(エーステをご存知ない方に軽く説明すると、エーステは『A3!』という役者育成ゲームが原作の舞台で、藤田さんは劇団員でありながらヤクザの「古市左京」という役を演じており、吉高くん演じる莇くんは左京さんの所属する組の組長の息子。左京さんとは犬猿の仲であるが、劇団内で同じチームに入っており、関わりも因縁も深い)
今回のモリミュではミルヴァートンの出番が多く、必然的に彼の側近であるラスキンも重要な役どころになるだろうと思っていた。そして、「ラスキンを吉高くんが演じてくれたら良いな」ともひそかに考えていた。吉高くんの線の細く少しミステリアスさも湛えた雰囲気はきっとラスキンのビジュアルに嵌まるだろうし、あまり中の人繋がりを面白がりすぎるのも良くないと思っていても、左京さんと莇くんを演じる二人がミルヴァートンとラスキンになるのは、シンプルに「美味しい」。
ラスキンをどなたが演じているのか、劇場でしっかり確かめねば! と意気込んで行ったところ、吉高くんが演じておられて、かなり喜んでしまった。
吉高くんのラスキンは、私にとって今作におけるダークホースとでも言おうか、特に注目して追いかける存在となった。
ホワイトリーが触った手すりをポケットチーフで拭き取る仕草や、用を足した手をジョンの上着にべっとりとなすり付ける嫌がらせのいやらしさ(勿論いい意味で)。これはさすがに舞台でやるのは厳しいのでは? と思っていた例の「器物損壊」シーンも、まさか演じてくださるとは。
ミルヴァートンの影のように付き添いながらも、存在が影に埋もれない、側近として己の考えをよどみなく述べられる知性と有能さを持った、存在感と独自の性格付けを強く感じるラスキンで、ミルヴァートンの陰湿さとまた種類が違う、シンプルに嫌なことをやってくる、本当に憎らしくて嫌な奴だった(言うまでもなくこれは褒め言葉だ)。
吉高くんが射止めてくださったからこその、実に癇に障るラスキンで、こんなに魅せてくれた吉高くんをすっかり好きになってしまった。
ラスキン以外の貴族役なども佇まいが良く、今後どんな役を演じていかれるか、楽しみにしている。
話が脇道に逸れたので戻す。
護衛とメイド、そして何よりも大切な弟を殺されたホワイトリーは、深い慟哭と悲しみの中に激しい恩讐の念を燃やす。
このシーンで、ちょっとこれはと驚いたことなのだが、ホワイトリーに懺悔するスターリッジが「妻の切り取られた指と結婚指輪が送られてきて」という台詞があった。
私はこれを聞いたとき耳を疑い、原作でこんなことを言っていただろうか? と思った。
帰宅後原作を確認したが、スターリッジは「誘拐された」としか言っていなかった。
何て残酷な台詞を追加したものだろうと思ったが、この追加、よく考えられているなと思うのだ。
スターリッジはホワイトリーの見込んだ警官である。生半可な脅しに簡単に屈するような性格ではなかろうし、無抵抗な罪なき人を殺めることに対する良心の呵責は人一倍であろう。誘拐程度ではまだ確実に犯罪に手を染めるか分からない。
その一線を確実に踏み越えさせるためには、「脅しでなく、確実に危害を加える準備ができている」と分かる露骨な脅し方をしないと動くまい……とはいかにもミルヴァートンがやりそうな方法だ(ミルヴァートンの指示ではなく、部下の判断で行なわれているかもしれないが、いずれにせよミルヴァートン好みのやり方であることには違いない)。
パワーアップしたえげつなさに震えつつも、何と細かいところを詰めてくるのだろうと思った。
(*追記 この感想を読んでくださった方から、「この追加されたくだりはアニメ由来かもと見かけた」とご指摘いただきました。確認したところ、モリアニ20話「ロンドンの騎士 第二幕」にて、確かに「スターリッジの自宅のテーブルに、脅迫状と共に指輪が嵌まった切り取られた指が残されている」シーンがありました。モリミュは「送られてきた」としていますが、アニメ由来の発想かもしれません。ご指摘くださった方、そして最初に気付かれた方、ありがとうございます。)
下手人であるスターリッジに、家族が人質に取られたという事情があったのは、ホワイトリーも分かっている。その苦悩も分かるし、復讐しても弟サムが喜ばないのも分かっている。
それでも、弟と過ごした思い出が最後の引き金となって、ホワイトリーを衝動的な凶行に走らせた。
「理想のために全てを犠牲にできる」と覚悟していても、それが実際どれほど難しく厳しいことか観客も思い知らされ、そして「ウィリアムの理想のため全てを捧げる」という決意を持つモリアーティ陣営が、もしウィリアムを失ったときどうなってしまうのだろうと、一抹の不安を予感させるシーンでもあったと思う。
「家族や仲間に手を出したら不正の証拠を公表する」と脅されても、そもそも公表したところでそれが効力を持たない状況にホワイトリーを追い込んだのは、ミルヴァートンの本当に狡猾なところだ。ホワイトリーが清廉な人物であったればこそ、彼が殺人という大罪を犯せば、世間の人は黙ってはいない。聖人君子の裏の顔への悪趣味な好奇心を募らせ、彼が他者の不正を暴いたところで「犯罪者が何を言う」と耳を貸さないだろう。
ホワイトリーがナイフを構え、復讐心と良心の板挟みになって逡巡の渦の中にいるとき、舞台上にはミルヴァートンの三人の部下が出てきて、誘惑するように脅迫するように「殺せ!」と畳み掛ける。
このシーンは、この部下の三人が「三人」であることをこれほど上手く活かせるのか! と個人的に今回一番凄いと思ったところだ。
ラスキン、ハリー、ゴズリングはこう歌う。
「きれいはきたない きたないはきれい / バンザイ! ホワイトリー!」
私はこれを最初に聞いた瞬間、心底ゾッとして、同時に身体中が熱くなって、叫びたくなるほどの衝撃を受けた。
まさか『マクベス』を、ここで持ってきたのか! と。
「きれいはきたない きたないはきれい」は、『マクベス』の中で一番有名な台詞のひとつだろう。出典が『マクベス』だと知らなかったが聞いたことがある、という人もいると思う。
『マクベス』の詳しいあらすじは検索などしてもらえばよいが、必要な部分だけかいつまんで言うと、「将軍マクベスが三人の魔女の予言を聞き、主君を殺し、王位に就き、しかし復讐されて倒れる」物語だ。
マクベス将軍が荒れ地で出会った三人の魔女は、「きれいはきたない きたないはきれい」という有名な台詞の後、マクベスにとある予言を授ける。
「バンザイ、マクベス! 王になる男!」という予言を。
そう、マクベスに予言を与えるのは「三人の魔女」なのである。ミルヴァートンの部下と同じ、「三人」だ。
――平民の支持を得て「素顔の騎士」として讃えられるホワイトリーは、己の出世に興味がない。だからこそアルバートが渡した貴族院の不正の証拠を、法案通過の裏取引材料として使うことを選択した。その点は、マクベスと異なるところである。マクベスは自らが王となるために主君を殺した男であるが、ホワイトリーは権力を得て自らが「王」になることを望んではいなかった。
しかしホワイトリーの「他者の働きかけで狂わされて凶行に及ぶ」という部分にマクベスとの共通項を見出し、合わせてきた。しかも三人の魔女をミルヴァートンの三人の部下に重ね合わせて。
この西森さんのセンスの凄まじさには、ひたすら脱帽し敬意を捧げるところだ。
また、パンフを買われた方は、西森さんが『マクベス』について語っておられるコメントをご覧いただきたい。そんなこと、私は思ってもみなかった。しかし言われてみると、なんとぴったりなのだろうと、目から鱗が落ちる思いをした。
そしてさらに話が脇に逸れるが、『マクベス』といえば、将軍マクベスの王殺しの共謀者としてマクベス夫人が登場する。
マクベス夫人に関して、とある有名なシーンがある。それは「手に付いた血が落ちないと言って手を繰り返し洗い続ける」シーンだ。
原作読者はご存知だろう。『憂国のモリアーティ』においても、己が殺めた人の緋色の血が染み込んだ手の汚れが、どうやっても拭い落とせないと嘆く人がいることを。――そう、ウィリアムである。
私は原作でこのシーンを読んだとき、マクベス夫人を連想した。しかし、そこから広げて西森さんの語っている境地にまでは至らなかったし、ホワイトリーにマクベスを重ね合わせる発想もまるでなかった。
本当に、本当に、西森さんというのは恐ろしい方だ。一日でいいから西森さんになって、どんな風に思考し世界を捉えているのか体験してみたいものである。
ちなみに本来、ウィリアムが手の汚れを拭い落とせないと語るのは「最後の事件」に入ってからのことで、原作の49~50話に出てくるエピソードだ。だが今回Op.4の中で、ウィリアムが手に染み込んだ血の汚れを拭い落とそうとするかのように、手をこすり合わせながら歩くシーンがあった。
仲間を思えばこそ、一人で闇に落ちる覚悟を決めながらも、罪の意識と孤独の中に一人堕ちていこうとするウィリアムの傷悴が感じられ、ドキッとする、印象に残るシーンとなった。
ホワイトリーが凶行に及ぶシーンは、川原さんの熱演によって、また曲の盛り上がりも相俟って、凄まじいシーンとなっていた。
そして<犯罪卿>がホワイトリーを殺し、彼を罪人にさせず、平等への希望の象徴のままでいさせることに成功し――しかし同時に<犯罪卿>が国中を敵に回したところで1幕が終わる。
ウィリアムが襤褸のようなマントを着せかけられ民衆の攻撃の的になるシーンについては、後述する。
既に1万3千字以上お読みいただいてしまっているのだが、後半もどうかお付き合い願いたい。
【四つの署名】
2幕で扱われるエピソードは「四つの署名」と「犯人は二人」である。
先にも述べたように結婚詐欺のくだりこそ省かれたものの、よくぞここまで原作に忠実にやり切ってくださった、と思った。
原作において11巻丸々1冊を使っているこのエピソードが、あれほどコンパクトに、しかし重要な情報の取りこぼしなく進行できたのは、ジョンの存在によるところが大きいだろう。
ご存知の通り、『憂国のモリアーティ』の世界では、「ジョン=コナン・ドイル」であり、彼こそが物語の語り手である。語り手とは、作中世界と読者を媒介する者。読者(観客)に説明することが許された存在だ。
その語り手としてのジョンの特性が活かされて、上手く状況を説明しながら話を進めていて、何度も同じ言葉を繰り返してしまうが、本当に構成が上手いと思う。
鎌苅ジョンのやさしげな声による語りで話が運んでいくのは、まるで物語の読み聞かせをしてもらっているかのような安心感があった。
この話のキーパーソンであるメアリーを演じる山内優花さんは、以前配信で観た『歌劇 桜蘭高校ホスト部』の藤岡ハルヒ役で拝見したことがあり、可愛らしい歌声と元気な笑顔に好感を持ち、今回のメアリー役ではどんな表情を見せてくださるのだろうと期待していた。
ジョンの婚約者として突如現れ、しかも何か事情があるくせに隠しているという時点で(そしてシャーロックがあからさまな嫉妬をしているのをかわいいと思って肩を持ってしまうせいもあって)、観客からメアリーへの好感度はどうしても低空飛行になりかねない。少なくとも「ジョンくん良い人見つけたね!」と手放しで喜べる相手だと思うことはなかなか難しい。
しかし、そんな好感度を素直に得ることが難しいメアリーという役だが、山内さんのメアリーは一生懸命で、シャーロックも認めるほどの機知もあって、少しずつ少しずつ、観客からの好感度を上げていく。
そして、ハドソンさんの歌に続けてメアリーが歌うシーン。ハドソンさんが「今話してくれた気持ちに噓偽りはないと分かる」と確信を持ったとき、私もまた、メアリーのことをようやく認められるという気持ちにさせられた。
ひたむきさがあってつましげな、好きにならせてくれるメアリーだ。
ときに、このハドソンさんの曲。七木さんのハドソンさんの凛とした軽やかな声と、楽しげな歌詞の内容がぴったりで、場をぱっと明るくしてくれて素敵だった。
ハドソンさんらしいコミカルな曲で、しかもまさかエジプトでラクダに乗っている原作のあの一コマだけのネタがちゃんと拾われて歌詞に入っているなんて! と感激した。
Op.1のアイーダにしてもそうだが、こういう、メインストーリーに直接絡まないけれどさりげなく描き込まれているネタを、しっかり見逃さず押さえてくれるから、モリミュのことが大好きだ。
また、メアリーの謎について思考を巡らすシャーロックの歌のパートでは、ヴァイオリン奏者の存在が、シャーロックの内面を表現するのを大いに助けていたように思う。
モリミュはヴァイオリン奏者が舞台上におり、しかも奏者の林くんは自らを「裏シャーロック」と呼んで、随所に工夫や遊びを入れてこようとする巧者である。
シャーロックが考えを巡らせているとき、林くんは演奏しながらシャーロックの周りをぐるぐると回る。かと思えば、シャーロックも林くんの周りをぐるぐると回る(このときの演奏、ピチカートの音とはこんなにも別の楽器のようになれるのか、と思えて面白かった。音楽に造詣が深くないのでふわっとした感覚で物を言ってしまうが、ギターであるとか、あるいは民族音楽に使われる弦楽器のような趣きがあったと思う)。
ぐるぐると考えながらまるで内面にいるもう一人の自分と冷静に対話しているかのような視覚効果が、林くんの存在によって生み出される。
演奏しながら立ち位置を変えられるヴァイオリンの強みを活かし、前に出すぎず、しかし完全なる黒子でもない。シャーロックの影としてのヴァイオリン奏者の存在が、こんなにも面白く機能するとは思わなかった。
ますます活躍の場を広げていらっしゃる林くんだが、どうか次作でも奏者として続投して、面白い工夫をいっぱい見せてほしい。
そして、舞台でどう表現するのであろうと思っていた、オーロラ号追跡のシーン。
舞台上に組まれた、中央がまだ繋がっていない建設途中の橋を思わせるセット(これも「最後の事件」のクライマックスを連想し、初めて見たときハッとさせられた素晴らしいセットだ)を、距離を取りながら並走する船に見立てて使っていて、なるほど! と思わされた。
このシーンでは、レストレードのナンバーが予想外に入ってきたのも面白かった。場を弛緩させきることなく和ませるレストレードに、観客も、そしてシャーロックたちもどれだけ救われていることだろう。
グレッグソンの活躍についても、毎回地味に楽しみにしているのだが、今回もしっかり入っていて嬉しい。
ところで、この追跡シーンだが、モリミュが原作と結末を大きく変えている部分がある。
それは、バーソロミュー殺しの犯人である吹き矢を持つ男(トンガ)が殺されず、負傷するだけに留まった、という点である。
原作では(そして正典でも)、追跡の途中、トンガは吹き矢を放とうとしたところ、銃に撃たれて殺されている。
正典を確認すると、ワトソンは『私たち(=ワトソンとホームズ)のピストルは同時に鳴った』と書いており、どちらがトンガを死に至らしめたのか、はっきりとは書かれていない。憂モリ原作も同様にシャーロックとジョンどちらの弾が当たったかは分からず、またこの行為は「正当防衛」であるとレストレードが言っている。
モリミュでトンガが殺されなかったのは、メタなことを言ってしまうなら、入り捌けの都合も多少はあるかもしれない。あの場で倒されてしまうより、負傷程度に留めた方が、捌けるときの不便がない。
しかし、そんな都合ではなく、もっと重大な理由があると思うのだ。
これには正典ホームズ・シリーズが執筆された当時の社会背景などが絡んできて、非常にデリケートな問題になる。いわゆる「未開の地」の住人であるトンガを殺しても、それを「殺人」と見なさず咎めない、人種差別的意識が19世紀末にはあった。作者であるドイルもまた例外ではなく、それゆえであろう、正典のホームズは、トンガ殺しに特に心を痛める様子がない。
しかし、憂モリのシャーロックにとって、人殺しは最大のハードルであり禁忌である。
正典の展開を踏まえて、憂モリのトンガもまた、シャーロックが撃った弾丸によって殺された(もしかすると当たったのはジョンの弾かもしれないが、今問題なのはそこではなく、「シャーロックが確実に当てて殺す意思を持って人に向けて発砲したか否か」という点だ)。
ここで「殺す意思があった」ことにしてしまうと、後々の展開に都合が悪い。シャーロックを「相手を殺す意思を持って躊躇いなく銃を撃てる」人間にしてしまうと、ミルヴァートンとの対決において、その銃の引き金がとてつもなく軽くなってしまうからだ。
だからこそ、憂モリ原作ではレストレードに「正当防衛だ」と言わせ、シャーロックの(あるいはジョンの)殺人の罪を、表現は悪いかもしれないが「棚上げ」することに成功している(これは原作の展開への文句では当然ない。正典の展開をなぞりつつシャーロックが差別意識を持つ人殺しにギリギリならずに済む配慮が、あの「正当防衛」発言に表れていたと思う)。
しかし、正当防衛であれ、相手を死なせてしまえば、それはやはり殺人には違いない。とはいえ、威嚇や警告だけで引いてくれる相手ではない。
多分、そういう微妙なジレンマに悩んだ結果、モリミュは「トンガを撃ちはするが積極的な殺意を持たせず、負傷のみに留める」ことにしたのではないだろうかと、勝手ながらに思った。
この改変は、個人的にはすごく良かったと思う部分だった。詭弁になるかもしれないが、相手を殺す意思と目的を明確に持って発砲するのと、未必の故意に限りなく近かろうが牽制し無力化させるのを主目的に発砲するのでは、全然違うと思うのだ。
このシーンでは、原作11巻の作者コメントで構成の竹内良輔先生が一度は使いたかったと語られている「釜が爆発しちまう!」が、サラッと歌詞に入っているのも良かった。
この尺で、ダイジェスト感なく「四つの署名」の物語をやってしまったのは、本当にすごい。
メアリーがずっと隠していたこと――脅迫されているという事情が明かされ、物語はクライマックスの「犯人は二人」に入っていく。
【犯人は二人】
このパートについては語りたいことだらけだが、まずはミルヴァートンの221B訪問。
上でも述べたように、ラスキンの芝居がミルヴァートンの悪性を引き立てており、またハドソンさんの小さな抵抗が踏みにじられるシーンでは、よくぞここまで悪のミルヴァートンを作り込んでくださったと思った。観ていて気分が悪くなるかと思った(良い意味で)。
これほどの邪悪を演じている、この人が本当に藤田さんなのだろうかと、何度思ったか分からない。
「ロンドンの騎士」の感想のパートでも語ったが、モリミュには、西森さんのこだわりと博識を強く感じる、毎回恒例の教養ネタが細部に織り込まれている。
たとえばOp.1のときのウィリアムによる『ヘンリー五世』の引用。
Op.2のときのロリンソンをドン・ジョヴァンニになぞらえた演出。
Op.3のときのエダルジ事件にヒントを得たドワイト医師の人物造形。
今ここで全てを挙げきれないほど多くの「仕込み」が、まるで運命に定められていたかのように美しくカチッと物語に嵌まる展開には、毎度驚嘆し、唸らされてきた。
そして今回、『マクベス』とのシンクロ以外にもう一点、気付いたときゾクゾクするようなネタの仕込みがあった。
それは、ミルヴァートンが221Bから帰った後、シャーロックが隠していた本物のストラディヴァリウスで弾いてみせた曲についてだ。
あの曲は、ご存知の方も多いだろう、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」であった。ヴァイオリン曲の定番中の定番だ。
サラサーテはホームズとほぼ同時代の作曲家であるし、「ツィゴイネルワイゼン」の完成は1878年であるという。ちなみに正典における「最後の事件」のライヘンバッハの滝の死闘は1891年の出来事だ。
ホームズが生きた時代と同時代の作曲家の、私たちがきっと一度は聞いたことのある曲を、というチョイスだろうか。実に絶妙の選曲だ。
……と、最初は私もそう思っていたのだ。
しかし、モリミュがそれだけで終わるはずがない。
そう。何と、正典のシャーロック・ホームズ・シリーズに、サラサーテが登場するのである。
サラサーテの名前が出てくるのは、『赤毛組合』の文中。
ホームズがワトソンにこう言う台詞がある。
「午後からセント・ジェームズ会館で、サラサーテの演奏があるんだが、どうだろうワトスン君」(延原謙訳『シャーロック・ホームズの冒険』(新潮文庫)より引用)
演奏会を聞きに行くほどに、サラサーテはホームズのお気に入りなのだ。だからあのシーンで演奏される曲は、サラサーテでなくてはならなかった。
これに気付いたときは、「またしてもモリミュにやられた!」と思った。
原作マンガで何の曲と一言も書かれていない、あのときのシャーロックが弾く曲を、正典の記述をヒントにサラサーテに決めたそのセンス、知識。
仕込みの気配を感じるから調べて気付けたようなものだが、もし私がゼロから「この場面でシャーロックが弾く曲を決めてください」と言われたとしても、正典から引いてきてサラサーテを思いつける自信がまるでない。
どなたの提案であの曲に決まったものだろう。こんな細部まで考え抜かれて作られていることに感心し、モリミュへの信頼をいよいよ深くした。
そして、これもどう演出されるのだろうと楽しみにしていた、シャーロックとジョンの屋根上のシーン。
シャーロックはジョンという理解者を得て認められたことで、今のシャーロックになってきた。
そのシャーロックがジョンに「お前のこと認めてるつもりだ」と心の内を明かし、ここに至ってシャーロックとジョンの友情は、「友を認め、自由に自立し、幸せを願う」というひとつの完成形を見る。
人の幸せを願えることは、人間にとって最大の幸福のひとつであろう。
この先訪れる戻れない道にシャーロックが踏み出す直前にほんのひととき許された、友と過ごした穏やかな時間。かけがえのないときが、舞台の上に美しく展開されていた。
しかし、穏やかなときは長くは続かない。
いよいよ今作のクライマックス。ミルヴァートン邸での、ウィリアム、シャーロック、ミルヴァートンの三つ巴の対決である。
原作でも特に好きな話なので、本当に、語りたいことが山ほどありすぎて、何から言って良いのか分からないのだが、まずひとつ言うならば、「最高」の一言に尽きた。
前回のOp.3のとき、私は「ウィリアム、シャーロック、ミルヴァートンの三人は、それぞれに神であり悪魔であるのだな」と感じた。
神。それは人の子の罪に赦しを与えるもの。あるいは民衆の信仰を集める希望。もしくは万能を以て人を支配するもの。
悪魔。それは眉ひとつ動かさず人の命を奪えるもの。また殉教者をたぶらかさんと誘惑するもの。そして人を堕落させる愉悦を知るもの。
各々が性質の違った、神であり悪魔である部分を持っている。
その三人が一堂に会して、一手しくじれば均衡の崩れるぎりぎりのバランスの上で激しい頭脳戦を繰り広げ、互いの腹を読み合う緊張感、臨場感が舞台の上で展開する。
息をするのを忘れるほど、夢中になって見入ってしまった。
深き闇の底にありながら、天高くから大気を切り裂いて鋭く降ってくる鐘の音を思わせる、ゆらぎを抱えているのに不安定なところのない、金属質で澄みきった、鈴木ウィリアムの唯一無二な高音。
頭脳の回転の速さを表すかのように早口でも決して聞き取りにくくならず鮮明で、滑らかで、それでいて独特のクセのある波を持つ、天才的名探偵を表現するに相応しい平野シャーロックの節回し。
朗々と響く美声の中に目一杯の不穏さをはらませ、地を這う蛇のように、威嚇する獣のように、聞いている者を威圧しながらも、いつの間にか聞き惚れさせて魅了する、藤田ミルヴァートンの低音。
性質のまるで違う三人の声が、ぶつかり合いながらとけあって、間違いなく今作の、いや、これまでのモリミュの中でも屈指の盛り上がりになっていたのではないか。
このシーンについて、劇場で貰ってそのままろくに確認もせずカバンに突っ込んだS席特典を帰宅後じっくり眺めてみて、「なるほど、そうだったのか!」と得心のいったことがある。
この裏面に書かれた文言に、私はいたく感動した。そうだったのか、と思った。
特典のことになるので、全文を書くのは当然控えるが、一単語だけ紹介するのを許してほしい(でもやはり問題がありそうなら消します)。
その単語とは「witness」。――私たちはこの劇の「audience」ではなく「witness」だったのだ。
「audience」。劇の観客、聴衆。
「witness」。事件の目撃者。
本来であるならば、客席に座る私たちは「audience」になるはずだ。メタ的にも。
しかしモリミュは我々を「witness」にしようとする。
幕が下りれば元の日常に戻っていく、舞台の世界に入れない傍観者、ただの「観客」になることを許さない。
思えば、Op.1のノアティック号での演出からしてそうだった。第四の壁の向こうから舞台を覗き込んでいる私たち「観客」を、エンダースの事件を「目撃」したノアティック号の乗船客――当事者に、一瞬にして変えてしまった。
モリミュの魅力は、こういうところにもあるのかもしれない。
第四の壁の向こうにいることを許さず、観客を作中世界に引きずり込んでしまう、その引力。
この裏面の文章を作成する際「witness」という単語を選んだ方は、きっと飛びぬけたセンスをお持ちなのだろうと思った。
(※2/19追記 この特典に縦読みが仕込まれている、という噂を耳にして、慌てて再度確認した。馴染みのない単語だったので英和辞典を引いて、「うわっ!」と叫んだ。仕込んだ人も、気付いた人もすごい。本当にモリミュは油断ならない。)
そして客席の私たちを「目撃者」としながら、三すくみの均衡が、ついに崩れる瞬間が訪れる。
221Bのシーンで「誰が誰を恨み憎み、誰を“殺そうとしているか”まで簡単に分かる」とまで言ったミルヴァートンが、自分がシャーロックに殺される可能性を考えられなかったのは皮肉なことだ。シャーロックの言った通り、もしこれが喜劇なら、ミルヴァートンはとんだ道化である。
「お前は読み違えたんだ」とシャーロックがミルヴァートンを追い詰めるシーンは、ようやく溜飲が下がったとでも言おうか、心のどこかでホッとしてしまった。
しかし、そのすぐ後、シャーロックは自分の罪を警察に自首する。ジョンに「お前の結婚式に出なきゃなんねぇんだから、捕まるわけにはいかねぇ」と言い、ウィリアムに「お前の全てを解き明かし、俺の望む形で捕まえてやる」と言った男が、その二つともを叶えられない状況に自らを追い込む――逮捕されようとするのである。
モリミュ以外の話が混ざってしまうのだが、このミルヴァートンが撃たれるまでの三すくみのシーン、原作とアニメとモリミュで、ウィリアムの挙動が異なっている(アニメの挙動が違うのは自力で気付いたのではなく、友人が言っていたので気付いたことだ)。
原作のウィリアムは、途中で腕を下ろすこともなく、一貫して銃口をミルヴァートンに向けたままである。
一方アニメのウィリアムは、シャーロックが乗り込んできたタイミングで、ミルヴァートンに向けていた銃口をシャーロックに向ける。そして「名前を晒されてもいい」とシャーロックに告げるタイミングで、再びミルヴァートンに銃口を向ける。
しかしモリミュのウィリアムはというと、ミルヴァートンに向けた銃を何度か上げたり下げたりしており、ミルヴァートン退場の瞬間、シャーロックが撃とうとするのと同時に、先ほどまでミルヴァートンに向けていた自分の銃口を下げていく。
原作とアニメでは、ミルヴァートンに命中した弾丸のうち、多分全部シャーロックだとは思うが正直1発くらいはウィリアムが撃っていてもおかしくなさそう、という解釈の余地があったかと思う。
しかしモリミュでは、ミルヴァートンを撃ったのは全弾間違いなくシャーロックだ。
と、ここで今さらの疑問が湧いてくる。
「そもそも、ウィリアムは自分の名が晒されるリスクを覚悟の上で来ておいて、なぜシャーロックが来る前にミルヴァートンを撃ってしまわなかったのか?」
「シャーロックは望んだ形で<犯罪卿>を追えなくなると分かっていて、なぜミルヴァートンを撃ったのか?」
という疑問である。
ウィリアムが、ミルヴァートンを排除することで自分の名が<犯罪卿>として世間に知られてしまうことに躊躇いはないというのは、ハッタリではないだろう。しかしそれならば、ミルヴァートンと交渉の余地はないだろうし、排除すべき敵と定めた以上、さっさとミルヴァートンを始末してしまえば、仲間たちをミルヴァートンの部下たちとの戦闘でいたずらに苦しめることもないはずだ。
そしてシャーロック。「ジョンのため」という思いが第一にあり、「この先どんなことがあっても」という発言からも、最悪の場合はミルヴァートンを殺すこともうっすら選択肢としてあっただろう。しかし、それは本当に他の道がひとつも残っていない最悪の場合だけだ。あの場でミルヴァートンを殺して、口を拭っていられるような性格ではない。正当防衛ですらない私刑による殺人という、どうあっても絶対正しくない方法に手を染めてしまえば、探偵として犯罪者を追う資格を喪失する。「お前が思っているようなお利口な探偵じゃねぇ」と言っていたように、いくらミルヴァートンを許せない悪だと思っていても、一線を超えた理由はそれだけではあるまい。カッとなって衝動的にやったわけではないのは、直後に自首していることからも明らかだ。
この疑問について私の考えを述べていると、それだけでゆうに数千字を超えてしまうため、ものすごくざっくりと結論を述べさせてもらうと、
「ウィリアムは、シャーロックもおびき寄せられていることをミルヴァートンの様子から察し、それをどう利用できるか様子見をしていた」
「シャーロックは、ミルヴァートンの言うように『ウィリアムがミルヴァートンを撃ってしまえば現行犯逮捕せねばならない』ので、それを阻止するために自分が先に撃った」
のではないか、と思っている(こう言い切ってしまって良いのかとかなり悩んでいるのだが、正解の提示ではなくあくまでも私のひとつの考えなので、どうかお許し願いたい。人によってここの解釈は様々に分かれるところかと思う)。
ただし、これはあくまでも「原作から想像した理由」であり、モリミュはそこをちょっと変えてきているような気がしている。
このシーン、原作ではたった二度しか口を開かないウィリアムだが、モリミュでは歌が入ることもあり、台詞がいくつか加わった。
その中で「あなたの謀った策まで 全て僕の計画通り」とウィリアムは歌う。
謀った策とは、おそらくウィリアムとシャーロックを呼び寄せたことだろう。となると、ウィリアムがミルヴァートンを撃たずに待っていた理由に、もうひとつの可能性が見えてくる。
それは「いよいよ『最後の事件』を始めるため」という線だ。
――これは完全な私の妄想なので、間違った推論かもしれないのだけれど。
ウィリアムは、ミルヴァートン邸を後にしたとき、ルイスに向かって「こんなに早く人殺しをさせるつもりはなかった」と言う。つまりミルヴァートン殺しは自分の役目だと思っていたのだろう。
ウィリアムはさらに、シャーロックに人を殺させたのは「僕の落ち度」だとも話している。
ウィリアムにとって、<犯罪卿>を捕まえる名探偵は、潔白な人物でなくてはならない。光でなくてはならない。
ホワイトリーが人殺しになった瞬間、不正の告発の資格を失ったように、<犯罪卿>を追う探偵が人殺しになれば、捕まえる資格がなくなってしまう。だからこんなところで手を汚させるわけにはいかない。
ミルヴァートンを利用し尽くすならば、まずミルヴァートンの思惑通り、「ウィリアム・ジェームズ・モリアーティがお前の追う<犯罪卿>だ」とシャーロックに向かって紹介してもらえばよい。それからシャーロックの目の前でミルヴァートンを撃ち殺せば、これまで一切の証拠を残してこなかった<犯罪卿>は現行犯になれる。その場で捕まらず、シャーロックに自分を追いかける明確な名分を与え、その傍らで「最後の事件」を進めていくのがよいだろう。そんなことを考えたかもしれない。
だが、ウィリアムはギリギリのところで不安になる。目の前でミルヴァートンを殺したとて、シャーロックは本当に、確実に自分を殺してくれるのだろうか? と。
そして、ウィリアムは心のどこかで思ったかもしれない。
「今ここで、シャーロックがミルヴァートンという悪を殺せる人物ならば、同じ悪である僕のことも確実に殺してくれるはず。一度殺人を犯してしまえば、二度目のハードルは格段に下がる」と。
その悪魔の囁きに、ウィリアムは耳を貸した。シャーロックを光の名探偵でいさせることより、自分を確実に殺してくれる可能性を取った。
(それか、もうひとつ、あり得るかもしれないと思っている可能性がある。それは、ウィリアムが「弱さ」、裏を返せば心優しさゆえに撃てなかったという可能性だ。たとえ相手が必ず排除すべき敵であろうとも、殺すことをつらいと思い、躊躇いを持ってしまった。それゆえシャーロックに人殺しをさせてしまった。だから「僕の落ち度」と言った……という解釈なのだが、「一人殺せば二人殺すも同じ」理論からすると、この可能性はどれだけあり得るだろうと疑問を持つところでもあり、今回は上記の理由の方が私の中でしっくりきている)
一方のシャーロック。
先ほども述べたように、最悪の選択肢として「ミルヴァートンを殺す」は想定の中にあったかもしれない。だが、それは本当に他の選択肢がない場合だ。
私は原作を読んだとき、シャーロックが最大のタブーを犯してまでミルヴァートンを撃った理由を「ウィリアムを現行犯にさせないため」だと思った。現行犯にさせてしまった瞬間、彼を解き明かす喜びは失われる。まだ解き明かしていないのに、お膳立てされた逮捕劇を演じなければならなくなる。それがウィリアムの策ならば、今回もみすみす乗せられて堪るか、現行犯になどさせてやらない、という探偵としての思いがウィリアムより先に引き金を引かせたのではないか、と。
しかしモリミュはシャーロックに「証拠を全部返す保証はない」と歌わせて、ミルヴァートンを殺すメリットを補強している。だが一方で「どんな理由であれ殺してはいけない それが俺の深い信念だった」とシャーロックは言う。
それでも、シャーロックは引き金を引く。ジョンのため。そしてモリミュでは「リアムの望みのため」とも言いながら。
ここで、私はハッと思ったのだ。
これまで、「ウィリアムを現行犯逮捕するのを避けるため」にミルヴァートンを撃ったのだと思ってきた。これ以上手のひらの上で踊らされてたまるか、思惑には乗ってやらないぞという宣戦布告であろうかと。
だが、モリミュの「リアムの望みのため」という一言で、別のものが見えた気がした。
シャーロックはウィリアムを――友達を、人殺しにさせたくなかったのかもしれない。
どれが正解なのか、はっきりとしたところは分からない。シャーロックだって、どれかひとつの理由だけでその一線を越えたわけではないだろう。いくつもの要因が重なって、引き金を引くに至ったに違いない。
でも、「ジョンとの友情のため」だけでなく、「ウィリアムとの友情のため」という線は、私にこれまで欠けていた視点だった。
たった一言「リアムの望みのため」と言わせたことで、この視点に気付かせてくれて、モリミュには感謝しかない。モリミュを観ていると毎回、自分の解釈が物事の一面しか見ていなかったことに気付かされる(とは言いつつも、私の受け取り方が間違っていて、「リアムの望みのため」が別の解釈である可能性もある。本当に、ここに関しては、解釈が人によって異なる、正解の分からないところだと思う。どうか私の言ったことを信じすぎず、あり得る数多の解釈のひとつ、くらいに思ってほしい)。
さて、この三つ巴のシーンは、ジェファーソン・ホープの事件(「シャーロック・ホームズの研究」)とまるで裏表のような構図になっている。
あのとき、ホープは「自分を殺せば『あの方』の情報が手に入り、自分の首を差し出せばお前の冤罪は晴らせる。メリットしかない」とホームズを誘惑した。
今回、ミルヴァートンは「自分を殺さず言うことに従えば友人を助けられるし、<犯罪卿>を逮捕したという手柄も得られる。メリットしかない」とホームズを誘惑する。
あのとき、シャーロックはホープを殺さなかったことで、<犯罪卿>を追う探偵としての資質を認められた。
今回、シャーロックはミルヴァートンを殺したことで、罪人の咎を負い、<犯罪卿>を追う探偵としての資格を喪失した。
しかし、あのときも今も、シャーロックにはひとつだけ変わらず共通するものがある。
それは「あいつの全てを、俺が解き明かす」というその決意だ。
ノアティック号での最初の出会い。
列車の中での再会。
ダラム大学への訪問。
そして今回のミルヴァートン邸。
これまで、ウィリアムとシャーロックが直接顔を合わせたのはたった4度だけだ(これらの出会いがモリミュでは各公演に一度ずつで割り振られているのは、今見ると本当に美しい構成だと思う)。
実際に顔を合わせていた時間はトータルにすると一日分にも満たないであろう。しかし二人は誰よりも相手のことを考えながら過ごしてきた。
そして、シャーロックは初対面のときから特別なものを感じていた相手が、自分を狂わせる至高の謎<犯罪卿>であることを知り、「俺の望む形で捕まえてやる」と宣言する。
シャーロックにとって「捕まえる」とは、もはやその背中に追いつくことではない。単に逮捕することでもない。
彼の謎を全て解き明かし、「同じ地平」に立って、彼と同じものを見ることだ。
謎の城を上っていくシャーロックは、少しずつ少しずつ、その場所に近付いていっている。
だがウィリアムはというと、どうだろう。
罪の重圧に耐えかねて、楽になりたい一心で、全てを見通すその瞳が今はいささか曇っているように私には見える。
「一人殺せば二人殺すも同じこと」という前提があり、「シャーロックがミルヴァートンを殺した」という事実があっても、それを演繹したところで「だからシャーロックはウィリアムのことも殺せる」とはならない。そのことにウィリアムは気付けない。
孤独の部屋にいる彼は、緋色に汚れた己の手に、手を差し伸べてくれる人がいることを想像すらできないのだ。
そして、緋色に染まった己に苦悩する人物が今もう一人現れた。そう、シャーロックだ。
逮捕された後、友のために殺人を犯したシャーロックは苦悩する。
シャーロックに、これが正解だったと言ってやることはできない。手を緋色に染めた罪は、殺された本人が発見されないところで、消えてなくなるわけではない。
しかし、思うのだ。このとき罪を負って、シャーロックは探偵としての資格を失う代わりに、ウィリアムを救う資格を得たのかもしれない、と。
この先、「最後の事件」のクライマックスで、ウィリアムを最後に目覚めさせたのは、シャーロックから投げかけられた「友達」という言葉だった。
しかし、その言葉の前にシャーロックは言う。「俺はミルヴァートンをこの手に掛けた、お前と同じ罪人だ。だからこれから一緒に償っていこうぜ」と。
決定打を与えたのは「友達」という一言であったかもしれない。しかし、閉ざされた心にそれが染み込んだのは「同じ罪人」という前振りがあったからこそではなかろうか?
「一緒に償おう」という言葉を、罪を知らぬまっさらな人間が呼び掛けるのと、同じ罪を知る人間が訴えるのでは、天と地ほどの開きがある。
この罪を、正解だとは言わない。
しかしこの罪は、必要だったのかもしれない。
――だがそう言えるのは、結末を知っているからだ。緋色に染まったシャーロックの苦悩は、まだ続く。
Op.5でウィリアムとシャーロックの関係は、どのように描かれていくのだろう。西森さんなら、そしてこの座組なら、きっと素晴らしいものを見せてくださるに違いない。
さて、ストーリーを追いながら最後までざっと書いてきて、上記の中で上手く話題に混ぜ込み損ねたところを、順不同に断片的に挙げていきたい。
まず、アルバートがミルヴァートン邸での戦闘に加わっていたことに関しては、「モリアーティ陣営総力戦」という感じが出ていてワクワクしてしまった(この表現は我ながらどうかと思いつつも、どうにも他に言いようがない)。
これまで戦闘の場に出向かなかったアルバートが、ここに至って前線に出てきたのは意外だった。特にモリミュではアルバートが隊を指揮する「伯爵子弟誘拐事件」をやっていないので、これまでアルバートのアクションを我々は見ていない。
久保田さんのアクションをモリミュで見られるのが嬉しかったし、先ほども述べたように「総力戦」「絶対倒さねばならない敵」という意気込みの表れとして、抵抗なく受け入れられる改変であったと思う。
また何より、アルバートはこの先「モリアーティ伯爵」として、他の仲間が絶対代われない立場で世間からの非難の矢面に立つ戦いを続けていくことになる。
アルバートは、ウィリアムと離れていても同じ志を胸に持つ限り、心はいつだって近くにある。
しかし「伯爵」の立場にある以上、<犯罪卿>の名が世間に公表されてしまえば、物理的にウィリアムと一緒の戦場に立てるのは、他の仲間と違い、アルバートにとってこれが最後なのだ。
「計画の依頼人」として、せめて最後に一度だけ、同じ戦場で戦って近くで力になりたい。この先は共にいられなくなるから。
そんなアルバートの決意と未練が垣間見えたような気がして、良い改変だったと思う。
アルバートといえば、ウィリアムに向かって懺悔する歌もすごかった。
「死への誘惑」をはっきりと歌うウィリアムにも驚いたが(本来、ウィリアムが擦り減って疲弊しきっていることを台詞の上で私たちが明確に知るのは、原作だとこの少し先のエピソード。49話で「僕はもう死にたいんだよ」と語るのを待つことになる)、アルバートがウィリアムに向かって「この兄を赦してくれ」ではなく「呪ってくれ」と歌ったのだ。
懺悔の言葉を並べながら、人は赦しを請うものだ。普通なら。
しかしアルバートは赦しを求めない。
ウィリアムの痛み、孤独。原作と異なりホワイトリーに向かって「我々が<犯罪卿>」ではなく「僕こそが<犯罪卿>」だと言い切ってしまった、ただ一人で罪を背負うという覚悟を、モリミュのウィリアムには既に見せている。それに対するアンサーとして、「呪ってくれ」という言葉を持ってくるなんて。
赦されてしまってはいけない。それは共に罪を背負わないということだから。
呪ってほしい。それなら、その罪の元凶を自分にすることができるから。ウィリアムの重荷を少しだけ引き受けてやることができるかもしれないから。
そんな思いが伝わってきた。
人々の憎まれ役となり、誤解され、侮蔑され、最悪の犯罪者に身をやつすのが計画通りだと言われたところで、ウィリアムの抱える痛みと孤独をアルバートも私たちも知っている。どれほどの覚悟があったところで、覚悟は痛みを軽くしないことも。
Op.5に向けて意識的に張り巡らせてある伏線の中でも、この「呪ってくれ」には完全にやられた、と思った。
また、印象的な天才フレーズの話を先に出したが、ここでもうひとつ挙げておきたい。
それは「まこと」だ。
Op.1からメインテーマの中に出てきていた、「まこと」という言葉。
Op.3で「まことの音色」という言葉が印象に残ったせいだろうか、今回のOp.4で「まこと」という言葉が出るたび、思わずその含む意味を考えた。
ウィリアムの言う「あなたのまこと」「覚悟がまことにあるのなら」。
アルバートの言う「まことをなせ」。
その言葉が内包する意味の中には、キリスト教的なものも含まれていることだろう。聖書の中で「まこと」は頻出ワードだ。
しかし、私は一人の観客として、「目撃者」として、その言葉が出るたびに、問われているような気がした。
お前は今、どれだけの真実を正しく把握できているか。今いったいどれだけ正しく「まこと」を見抜けているのか、と。――この場合の「まこと」とは、キリスト教的な意味を持つそれではなく、シャーロックの言うところの「緋色の糸」。ひとつひとつ可能性を潰していった先に見えてくる、有り得なさそうでも残された、謎の向こうに隠された真実のことだ。
これは何もモリミュに限った話ではなく、普段の生活においても。派手な風聞に惑わされ、目に見えるものだけを鵜吞みにし、「まこと」から目を背けてはいないだろうか。大切なものを見抜けていないのではなかろうか。
ホワイトリーの罪を引き受けたことで、手のひらを返したように、<犯罪卿>は市民から敵視されることになる。救世主が十字架を背負い、茨の冠をかぶせられ、侮辱の言葉を投げかけられたのを再現しているかのように。
「まこと」の彼を、人々は知らないのだ。
襤褸のようなマント――おそらくはホワイトリーの言うところの「罪の衣」を羽織り、人々から冷たく突き飛ばされるウィリアムを見ると、胸が痛んだ。
と、ここで、「ロンドンの騎士」のパートの最後で、後述すると言っていた、襤褸を着せかけられたウィリアムの話をやっとする。
これは、はっきりと元ネタであるとまで言えないと思うし、牽強付会が過ぎるかもしれず、書くかどうかを迷った話なので、あくまでも話半分だと思って読んでほしい。
今回のモリミュを観た後に、アルバートの歌に出てきた「ゲッセマネ」の言葉が気になって、私は新約聖書を眺めてみた。ゲッセマネは、キリストが捕らえられる前日に祈りを捧げた場所である。
そのとき、『ヨハネによる福音書』で死刑の判決を受けたときのイエスについて、『兵士たちはイエスに紫の服をまとわせ、そばにやってきては平手で打った』と書かれているのが偶然目に飛び込んできた。
福音書によって、服の色の記述に「紫/赤/派手な衣」、「葦の棒で叩かれた/平手で打った」など違いは多少あるが、「衣を着せかけられ」「人々から攻撃を受けた」という点では概ね共通しているようだ。
私はこの記述を見たとき、ウィリアムがあの「罪の衣」を着せられたシーンにどこか似ていると感じた。
人々に憎まれ、望まぬ衣を着せられ、寄ってたかって責め立てられる、磔刑になる直前の救世主の姿。
先に述べたように、聖書のこの記述が元だと思うには、異なる部分も多い(ウィリアムに着せかけられたのは黒いマントだったし、まるで襤褸のようだった)ため、あくまで「イメージが似ていると思った」に過ぎない。
もしかしたら、他に元ネタが存在するのかもしれない。
だが、偶然見つけたイメージの一致に嬉しくなって書いてしまった。
もし元ネタがあるのなら、どこかで明かされてほしいと思う。
あと、最後にもうひとつだけ。
これは2/4に発売された19巻を読んでいてハッとしたことだ。
「恐怖の谷」でウィリアムがシャーロックに「僕の心に火を灯し続けて欲しい」と言う。
今回のモリミュの終盤、ウィリアムは何と歌っていたか、覚えておいでだろうか。
そう。「命の火を消し去って 凍えたこの僕を消し去って シャーロック」だ。
これが偶然か、それとも原作のこの台詞に呼応するように作られた歌詞かは分からぬが、本当に、原作の要素をこれでもかと拾って膨らませてくるモリミュの凄みをつくづくと感じる歌詞だった。
最初に思っていたより随分と長々書いてしまい、そろそろ読んでくださる方もしんどくなってきたと思うし、私もキリがないので、語り損ねていることはまだあるが、一旦ここにて話を切りたい(明らかな勘違いに気付いた部分などあれば、ちょこちょこと直していきます)。
残りはまた次回。Op.5への持ち越しだ。
モリミュはメインテーマで、Op.1のときからこう歌い続けてきた。
「地獄に響く 闇と光の旋律 目覚めよ まことを見よ」
闇と光の交じり合う場所に謎が生まれ、その向こうに、やがてひとつのまことが見えてくる。
私たちは目を凝らし、目撃せねばならない。謎の彼方に隠されたまことの姿を。<犯罪卿>が用意して、名探偵が解き明かす、この物語の終幕を。
それを目撃できる日が、遠くないことを願っている。
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