「強いひと」と「弱いひと」の違いは、痛みに対する感度の差ではないと思う

私は「強いね」と言われるタイプの人間です。

打たれ強い、忍耐強い、ピンチに強い。
サバイバルスキル高め女子です。

そして、類友なのか、私のまわりには同様に「強い」友人が多く、面倒見がよく頼られやすい感じで、トラブルに巻き込まれたり、人の問題まで抱えすぎてキャパ越えしてる様を見聞きします。

たぶん、私は類友だからそういう姿を知ってるけど、彼女たちは「弱いひと」にそういう姿を決して見せずに戦ってるんだろうな、と思います。

私なんかも尊敬の気持ちとかで「強いですね」と言われるのは、「まぁね!」みたいな、ちょっとした誇らしさも生まれるのですが、たまに

こういう雰囲気で「強くて羨ましいな。私はすぐ傷ついて落ち込んじゃうもの」みたいなことを言われると、心がもやっとします。

こういう言葉の裏側に「傷つかない強靭な心をもった人」みたいな誤解があるように思えるのです。

なんか、逆境に対してすごく分厚い壁をもってる人、みたいな。
どんな雨風が吹いても、槍が飛んできてもビクともしない鉄でできた人間かのような。笑

実際のところ、傷つく痛みは同じだと思います。感度は変わらない。

苦しい、悲しい、辛い、痛い

「強いひと」と形容される人のほとんどは、どれも「弱いひと」と同じように感じてる。

ただ、傷ついたあとに、それを表に出すか、出さないか。
「逃げるか、耐えるか」の違い。
つまり、対応の仕方が違うだけだと私は思います。

ダメとか無理とか、言わない(言えない)
逃げ出さない(逃げ出せない)

それは果たして「羨ましいこと」なのだろうか。

私は、昔から「ダメ、無理」と言える人ほど強い人はいないと思っています。それが言えるのは受け入れてくれる環境があるからこそだと思うのです。

それを言っても嫌われない自信もある。

私なんかは、心が折れることがまずないのですが、それは逃げ場がどこにもないからだったりします。

漫画喫茶で寝泊まりしてしのぐ時期もあったけど、そこまで極限の頃も1人で耐えてきたし、何かあってもどうにかするしかないと覚悟してる。

それは逃げられない経験を繰り返して得た「腹くくり」であって、痛みの感度が低いわけではないのです。

ある友人は昔「強いひと」だったけれど、「弱いひと」に言い寄られて流された彼氏に「お前は強いから1人でも大丈夫だけど、あの子は弱いから放っておけない」と突然、振られました。
逢いたくても「忙しいだろうから」と必要以上に強請らず、大変なことが起こっても「せっかくの2人の時間に愚痴を話したくない」と、いつも相手を思いやる良い子でした。
でも我慢して健気に耐えた結果、待っていたのは「お前は俺がいなくても大丈夫なひと」という烙印でした。それがきっかけで彼女は精神的な病気を患い、仕事を辞め、今はもう昔の面影もありません。

彼女が「強いひと」でいたのは責任感や周りへの気遣いから意図してその姿勢でいただけであって、鉄の心を持っていたわけではなかったのです。

私の周りは「強いひと」が多いけど、みんな優しいです。
優しいから、責任をしょいこんだり、まわりに心配かけまいと気丈でいる。

まぁ、私の場合はマジで鉄の心かもしれないのですが(笑)多くの「強いひと」は傷つきながらも、「強く在ろうとする人」だと思います。

弱いも強いも性質の話であって、良い悪いではないけれど、弱い立場をとるほうが強い立場をとるより楽な部分は圧倒的に多いです。

そう思うと「強いひと」は不器用なひとなのかもですね。

「ダメ」も「無理」もときに選んでいいはずの言葉なのに、それが出来ない。
それはそれで苦しかったり辛いことだと私は思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?