見出し画像

夜中に玉ねぎスープを作っていたら、ふとnoteを始めたくなった話。

わたしは昔から『忘れもの』が多い。

それは、小中学校の授業プリントやらにはじまり、今では携帯電話や財布、ハンコ、鍵など、わりかし忘れてはいけないものまで忘れてしまう。自宅に、とかなら、まだ可愛げがあるほうで、どこに忘れたかすら覚えていないのだから本当に困る。

さらに、わたしの『忘れもの』は、そうした物質的な「モノ」だけにとどまらない。たとえば、出会った人の名前や顔、きのうの晩ごはん、友人との何気ない会話、などなど日々の「コト」。つまり、「思い出」や「記憶」にも当てはまる。

10年以上も前のことをまるで昨日のことのように、鮮明に、かつ臨場感たっぷりに話してくれる方に出会うこともあるが、わたしには到底できないことで、心から「すごい」と思う。「わたしたちは本当におなじ人間だろうか」、とすら思ってしまうほどに。

さてさて、タイトルに戻るが、夜食に玉ねぎスープを作りながらふと、「わたしの脳みそって玉ねぎみたいだな」と思った。
というのも、その日の玉ねぎは少し傷んでいて、いつもより多めに皮(というか、ほぼ実)をむいていたのがきっかけだった。

このまま玉ねぎをむいて、むいて、むき続けたら。
全部いらない「皮」として捨て続けたら。
まな板の上にはなにも無くなってしまう。

そんなことを考えてたら、気づかないうちにわたしの脳みそから、ペリペリめくれてこぼれていく(これまでこぼれていった)毎日の記憶が、なんだかごみ箱の中の玉ねぎに重なってしまって、「わたしもこのまま何も無くなってしまうんじゃないか」と思えた。
かといって、今さら脳みそをアップデートできるか、と言われると現実的ではない気がする。


と、いうことで、わたしからはがれ落ちていく「玉ねぎの皮たち」を、せめてどこかに保存しておくという意味で、このnoteを始めようと思う。

毎日の中で出会う、素敵なモノやコト、大切な人たちのこと、ふとした瞬間の景色、心地よい音、わたしの心を彩ってくれるそれらを忘れないように。
もし忘れてしまっても、また思い出せるように。

時には、必ずしもそれらが「美しいもの」とは限らないけれど。
それも、まあ、御愛嬌、ということで。

そんなこんなで、このnoteが完全にわたし自身のためにあることは明らかなんだけれど、こうして文字にしていくと、自然と自分以外の誰かの存在を少なからず意識した言葉になっているから不思議なものだなあと思う。
まるで、読まれるかどうか、届くかどうかわからない。もっと言うなら、顔すら知らない相手にラブレターを書いているような、そんな気持ちになっている。

もしかしたらその「相手」は、すこし先の未来のわたし自身なのかもしれないし、遠いところにいる友人かもしれないし、本当に顔もしらないどこかの誰かかもしれないと考えると、ちょっと胸がときめく。なんだか、素敵なんじゃないか。

3日坊主が歩いているような人間なので、はたしてこのnoteが続くかどうか分からないけれど、とりあえずゆるゆると言葉にしていけたらいいよね、と、あの日の玉ねぎスープの味を思い浮かべながら考えている。

#はじめての   #note

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?