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銀河を買ってみた話【#シロクマ文芸部】

銀河売り場
夜の公園の散歩の途中で目にした、そんな小さな看板の出た夜店には、紫陽花の枝の間に小さな水滴が光る蜘蛛の巣が掛かったものを、いくつも並べて売っていた。
ああほんとうにそうだ。水滴の付いた蜘蛛の巣は銀河に似ていると、私もずっと前からそう思っていたことを思い出す。蜘蛛の巣はいつも一つ一つが何か特別な世界なのに儚くて、風や人に一瞬のうちに壊されてしまう。私は夜のうちに物干しに掛けられた美しい蜘蛛の巣を取り払うことをいつも躊躇する。が取るよりほかはない。洗濯物をそこに干さなくてはならないのだから。洗濯物を干すのは私の数少ない好きな家事なのだから。いえ、好きではない家事だとしてもやはり蜘蛛の巣を取って干さなくてはならないのだから。
売り物の「銀河」を眺めてあっという間にそんなふうに物思いにふけってしまった私に売り子の若い女性がそっと鈴を振るような声をかけてくる。
「おひとついかがですか?銀河を。おいしいですよ」
おいしい…おいしい銀河…?
私は蜘蛛の巣にかかった虫をおいしいおいしいと言って吸っている蜘蛛の声が聴こえたような錯覚を起こす。そんなはずはない、と少し首を振る。
「おいしいってどんな味なの?これはなんで出来ているの?蜘蛛の巣じゃないの?銀河なの?」
私はそんなおかしな錯覚などなかったように、冷静な早口で彼女にたずねてみる。
「飴でできているのです。そうですね、味は…」
彼女は暗い夜空を見上げて声を切る。
「味は…銀河ですから、あの遠い星を口に入れたような味ですよ」
私も彼女と一緒に空を見上げてみる。アラザンのような銀色の星が幾つも、かすかに瞬いている。今日は梅雨の合間の晴れた日だった。夜になってからも空に雲はなく、星が見えている。月も出ている。私はぼんやりした声で重ねてたずねてみる。
「遠い星は燃えているのではないの?口にいれたら火傷してしまうでしょう?それとももう燃え尽きて爆発して無くなっている星だとしたら、ラムネのように口の中でシュウッと一瞬で消えてしまうの?」
彼女はふふっとほほえんで
「そんなこと、わかりませんよ、たどりつけないほど遠い宇宙のことなんて。ほんとうに星が燃えているかも、消えてなくなっているかも、誰にも確かめられないじゃないですか」
と言い、さらに、
「私は星は冷たくて、少し甘いソーダ味だと思うんです。
でももし口に入れたのがさそり座のアンタレスなら、それは火の味がするかもしれないし、血の味がするかもしれないし、温厚にイチゴ味かもしれません。シリウスだったら薄荷です」
私もおかしいけれど彼女もおかしい。
彼女は銀河を売っているような人だし、私は銀河売り場に足を止めたような人なのだから、どちらもおかしくて当然だ。
「じゃあ一つ、銀河を」
私は値札の通り、千円札を彼女に差し出した。
「ありがとうございます。銀河をお一つ、どうぞ」
私は彼女に手渡された、紫陽花の花の間の枝にかかった銀河を受け取って、落とさないよう、こぼさないよう、静かに歩いて帰った。それは薄暗い帰り道でずっと光を浴びた水滴のように輝いていた。
途中で一度だけ、私はそれを顔に引き寄せて、そっと舌を出して舐めてみた。冷たくて甘かった。家に辿りついて紅茶を淹れて飲むまで、舌はいつまでもひんやりとしていた。
私はその銀河を瓶に差して、翌日まで窓辺に飾っておいた。夜の間中ほのかに銀色に光り続けていたそれは、朝になったらすっかり消えて無くなってしまっていて、紫陽花の花とその枝だけが残っていた。ああ、昨夜のうちに残りも舐めきってしまえばよかった。でもひと舐めであんなに舌が冷えてしまったのだから全部食べたら舌がしびれて長いこと味が分からなくなったかもしれないものね、舐めなくて良かったはずだわ。そう思って私は惜しい気持ちを忘れることにした。
銀河売りはその後一度も公園で見ることはなかった。いつもどこかを移動して銀河を売っているのだろう。

(了)

小牧幸助さんの企画に参加しています。


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