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初夏を聴く旅【#シロクマ文芸部】

初夏を聴く。そのために旅に出ようとその朝きめた。
旅なんて大げさに言っているけれど、ほんとは大したことじゃない。
ただ、初夏を聴くために一日じゅう好きなように何も決めずにあちこち行ってみようと決めただけだ。ひと月ぶりの休日だったから。ゴールデンウィークにも一日も休めなかったから。
もうとても暑い日もあって、「初夏」というものをどこかに失くしてしまいそうだと恐れた。知らない間に季節が行ってしまうことが恐ろしい。春は、桜の春は、かろうじてこの手のひらに乗せることができた。散っている桜を手の上に積み上げた。でも初夏というものは毎年知らないうちにどこかへ消えてしまい、緑の濃い季節になってしまっている。だめだ、今年は絶対に初夏を聴くのだ。
見るんじゃないの?感じるんじゃないの?
私の中で誰かがきく。
断固「聴く」の、とその声に答える。耳が初夏を求めている。きっとふさがっていたピアスホールをもう一度開けたせい。そこに空のような色をしたガラスのピアスをはめたせい。初夏はその新しいピアスのような色をしている気がする。でも音は?それにふさわしい音は?
いったい何を聴けばいいだろう?

初夏を聴く旅に出るために、髪を洗い、お気に入りの生成りのワンピースを着る。今年初めて素足にサンダルをはく。山葡萄の蔓のカゴを持つ。苦労して自分で作ったカゴ。そこにお気に入りのハンカチとお財布とスマホ。鍵。ゆうべ焼いたシナモンロール。そんなものを放り込む。水筒はどうしよう?いやいや、やめてしまえ。どこかでおいしい珈琲を飲もう。それかサイダーを買って飲もう。
どんどん心が軽くなっていく。なんの旅か忘れそうになる。最近はなんでもすぐに忘れてしまう。
家を出て考える。
どっちに行こうか?山の方?海の方?駅?全部?
そうだ、全部。それぞれで初夏の音をみつけよう。

山は近い。10分も歩けば近くの小さな山に登れてしまう。だれも行かない小さな神社がある山だ。神社のあるてっぺんまで石段が続いている。サンダルだけどヒールはない皮のサンダルだからすたすたと登れてしまう。途中には踊り場もなく、一直線に続く石段。私は半分くらい登って少し止まる。ああだめだ、身体がなまっている。仕事ばかりで運動が足りなかった。ここは一気に登れないといけないのに。
そんなふうに思いながら登ってきた階段を見下ろす。
見下ろしている私の上のほうから高らかに鶯が鳴く。春の鶯よりよく通る伸びやかな声が小さな山じゅうに響いている。
初夏を聴いた。

バスに乗って駅へ行き、電車に乗って少し大きな町へ行く。駅の近くの美術館に行こうと思う。何をやっているかは知らない。でも行ってみよう。
静かで来館者の少ない館内をゆっくりゆっくり見る。花の絵がいっぱいだ。みたことのある花なのに初めてみるようにみえる。花の絵はいいなあ、自分でも描きたいなあ。名残惜しく見終わってポストカードを何枚か選ぶ。これは自分用、これはあの人に、これはあの子に。
美術館を出たら珈琲を飲もう。ケーキも食べよう。そう思ったけれど、やめてまた駅に向かう。ホームに立って風に吹かれる。
「まもなく電車がまいります…」
一年中同じアナウンス。それが今は初夏の響きを持っている。
風が私の伸びかけた髪をひかえめに揺らす。このまま伸ばしますか?そろそろ切りますか?なんと答えるか迷う。伸ばそうかな…切ろうかな…どっちが良いと思う?風は答えないので私は到着した電車に乗り込む。

海に近い駅で降りた。ここで降りるのは何年ぶりだろう。
駅前はずいぶん変わった。コーヒーショップをみつけて珈琲を買う。紙袋に入れてもらってそれを下げて海へと歩く。海への道は変わらない。昔からの商店街に昔からの店が少し残っている。お肉屋さんでコロッケをふたつ。山葡萄のカゴに入れる。新しいプリン屋さんがあった。かわいい瓶に入ったかぼちゃプリンを買ってスプーンをもらう。さあ、今に海だ。波の音はいつでもその時だけの音がする。
ざざっざざっ。初夏の音。シナモンロールと珈琲。コロッケふたつ。かぼちゃプリン。青い空。遠くに続く海。人がまばらな海辺。最後に珈琲の残りを飲み干して。ああ食べ過ぎた。コロッケはひとつで良かったのに。あとでみんなに言ったらわらわれるな。食いしん坊だねって。
さあ帰ろう、と立ち上がる。急いで帰れば昼寝する時間だってある。
ああ良い休日だったな。初夏の休日に初夏の音をいっぱい聴いた。

(了)

小牧幸助さんの企画に参加しています。


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