赤
夢を見た。
仕事終わりに寄ったスーパーで買った弁当と缶ビールが入った袋を片手に部屋になだれ込んだ。ソファーとテレビの間に仕事着のまま倒れ寝そべるのが‘マキ’の帰宅後の習慣だった。ここのところ営業先への出向や新規開拓、部下の育成、雑務処理に追われて出突っ張りで家ですることと言えば食事と風呂と睡眠くらいだった。明日は久しぶりの休みだ、せめて溜まったゴミ出しくらいはしないと、七日分のゴミを袋に纏めたところで携帯が鳴った。「チッ」と舌打ちをして深いため息を吐いた。また社用携帯を持ち帰ってしまった、と苛立たしくて明日のゴミ出しは諦めよう、と悟った。鞄から社用携帯を取り出したが着信は無い。よく音を辿るとソファーに置いたクッションの下敷きになった充電器に差しっぱなしの私用の携帯が鳴っていた。
画面にはママと表示されていて、息を吸って背筋を伸ばして応答ボタンを押した。
「もしもし、マキちゃん?」
「なぁに、ママ」
比較的明るく答えたつもりだった自分に甘えた声色を見つけて耳を塞ぎたくなった。そんな私には気付かないままママは話し始めた。
「ママ、今夜マキちゃんちに行こうと思ってたの、、、」
「ごめんね、家に携帯忘れてた。何か用事あった?明日のこと?」
ママからの着信で明日の最重要タスクを思い出していた。◯◯ホテルに14時、ママの知り合いの息子さんとの会食だ。
「そうそう、マキちゃんの顔も見たかったし、、、、今夜ママも暇だったし」
約束を忘れていたことは黙っていて、うちに来ようとしていたのはママなりの気遣いだと受け取ることにした。お見合い紛いの約束を勝手に取り付けてきたんだから娘の機嫌を取りに来たって間違いじゃない、と語気強めに思ってまた耳を塞ぎたくなった。
「また実家に帰れる時は言うよ、とりあえず明日は遅刻しないように行くよ」
「そう、、、マキちゃんのとこ行っていい日あったら教えてね。そりゃうちに帰ってきて顔見せてくれたらお父さんも喜ぶと思うけど、、、」
「わかった、わかった。もうご飯食べるから切るね。また連絡するから」
「うん、じゃあ体に気をつけてね」
ママが私の家に来たがる理由は、主に私の世話をしたいからで、うちに来れば掃除や洗濯、食事に作り置きのおかずを冷蔵庫に入れて、友達のようにお喋りして帰っていく。それについてお父さんからママと私にそれぞれ子離れ、親離れしなさいと度々釘刺されているせいで余計にタチが悪い。
溜息をつきそうになった代わりに缶ビールを開けて半分ほど飲んだ。例えば、仕事が定時退社当たり前、公休が全日確実に取れて、有給休暇やお盆、年末年始の休みで旅行なんかに行くような私であったなら。部屋に洗濯物が散らかることなく、シンクが食器で溢れることなく、ゴミ出しが滞ることない清潔な部屋を維持できるような私であったなら。と考えたら鼻の奥がツンとしてソファーに頭を預けて目頭を押さえた。1mlも涙は感じなかった。
そうなると笑えてきて、弁当をレンジで温めている間に部屋着に着替えてメイクを落とし、明日行くホテルの食事メニューを見ることにした。食事代は相手持ちということで、美味しい食事を楽しみにしようと気を持ち直したが、約束の14時ではコース料理でもバイキング形式の食事でもなくお茶を飲みに行くようなものだと調べたら分かった。それでも気を落とさなかったのは、有名なのだろう、スイーツの写真がいくつも載っていたからだった。温まった弁当を食べながら、何だかよく分からない名前の、でも見た目が華やかで美味しそうなケーキの写真を眺めているだけで、さっきまでの溢れそうで溢れなかった感情たちが跡形もなく消えて目前のスイーツだけが心を支配するような不思議な感覚だった。それはどこかで覚えのある、でもいつどこで味わった感覚なのだろうか、思考に疲労とアルコールがもたれかかって私は空き缶片手に眠ってしまった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?