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ジュリアン・バーンズ『人生の段階』土屋政雄訳(新潮クレスト)

長く共に暮らした妻があっけなく死んだとき、残された夫はどうなるのかが生々しくつづられている。妻が死んだときの事情はいっさい書かれていない。ただ、夫の気持ちだけが書かれるのだが、それがなんとも説得力がある。きっとそういうものだろうと頷いたりもしたが、そんなこともあるのかと初めてわかったこともあった。

バーンズが突然に最愛の妻を失ったあとの作品、という表紙カバーの説明がなければ、第1部の気球の歴史、第2部の気球乗りと女優サラ・ベルナールの恋愛話はその意味がわからなかっただろう。すべて読んだあとでも気球の話をそんなに長く詳しく書く意味はそのまま納得はできていない。二つのもの(気球と写真)が出会うという意味もピンと来ない。ただ、第1部で気球から落ちてしまった男の短い描写は強く印象に残る。「衝撃で両脚が膝まで花壇に突き刺さり、内臓が破裂して地面に飛び散った」。これが妻との幸せな生活が終わってしまったバーンズの気持ちを表している。それほどの苦痛だった。その強い苦しみを第3部で書くためには、第1部と第2部のあれだけの分量があって初めてバランスが取れるのだろう。

妻は死んだが、自分の記憶には残っている。そこでは妻は存在している。だから友人たちには幸せだった妻と自分のことで覚えていることを話してほしいと彼はいう。その話を聞いているあいだ、妻はそこに存在するからだ。しかし実際には、死んだ妻のことを話題にするだけで周囲は黙りこんでしまう。そもそも大切な人を失って悲しむ人のそばには誰も近寄りたがらない。話しかけようにも適切な言葉は見つからないものだ。

グリーフワーク(喪の仕事)と簡単に呼ぶにはあまりに苦しい記述。その苦しさが結婚生活の幸福の度合いに応じたものなのだとしたら、結婚なんてほどほどの幸福ぐらいがいいのだと思ってしまう。相手はいつか失われるのであり、「すべての恋愛は潜在的に悲しみの物語」なのだから。


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