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マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』土屋政雄訳 新潮社

このところ複数の本に手をつけて読み始め、おまけに急に忙しくなって本を読む時間も少なくなり、どの本もなかなか読了できなかった。この本も図書館で借りたので期限を気にしながら細切れに読み続けて、やっと最後まで読み通した。素晴らしい小説なのに。もっとゆっくり読みたかった。自分で買い直そうと思ったが、絶版で古本はかなりの値段になっている。復刊してほしいなぁ。

オンダーチェはカナダの作家(小説も書くし、詩人でもある)だが、出身はセイロンで、イギリスに移住して、その後はカナダで活動している。

小説の舞台は第二次戦争終結間際のイタリア。ドイツ軍が使っていた貴族の屋敷はいまは荒れ果てている。その屋敷を連合軍が野戦病院として使っていたが退去することになった。しかし看護師の若い娘はそこから動くのを拒み、残って重症を負ったイギリス人の患者の世話をしている。そこに娘の父親の友人である男、連合軍の工兵であるインド人の青年が加わる。戦争前、戦争中の回想をはさみながら、4人の交わりを描く。戦争の無残と抒情がこんなに美しく組み合わされて描かれるとは。

戦争で傷つき死んでいく兵士を多く看護したハナはあるとき一気に思いをぶちまける。

「私、死のことならもうなんでも知っているわよ、おじさん。いろんな臭いも全部知ってる。どうやったら苦痛を忘れさせてやれるか。いつ大静脈にモルヒネを打ってやればいいか。死ぬ前に塩水で腸を空にしてやる方法もね。あんな仕事、軍のお偉方にもやらせればいいんだわ、一人一人、全員に。川越の命令を出す人間は、看護の経験をもつ者に限るべきよ。こんな責任を押しつけて、いったい私たちをなんだと思ってるの。看護婦は牧師じゃないのよ。誰も行きたがらないところへ導いてやって、おまけに苦しまないようにもしてやれ、なんて。そんな方法を私たちがどうして知ってるっていうの。軍隊が死者のためにやってる葬式なんて、私には信じられない。あのくだらない演説!よく言えるわよ。人の死をよくあんなふうにぬけぬけと...。」

インド人工兵が感じる人種差別。その中でもいっさい差別しなかった師の思い出。彼が不発弾を処理するときの恐ろしい緊張感。戦争中に次々と工夫して爆弾を処理しにくくするドイツ軍(というか、人間)の愚かさ、残酷さ。

イギリス人患者と恋人キャサリンの回想部分は、わたしが読んだことがある恋愛小説の中でも屈指のものだ。あの「鎖骨」のこと、二人が別れようとして、キャサリンがふりむきざま頭を門柱にぶつけてしまうところなど、ほんとうに心憎い。

人称が途中でふいに「男は」「女は」と変わるのも面白い工夫だ。原文ではHe/Sheなのかな。ハナがときどき洗濯して着る「ドレス」は「ワンピース」と訳した方がよかったのではないか。

ヘロドトスの『歴史』が読みたくなった。


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