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W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』鈴木仁子訳(白水社)

再読。初めて読んだときはストーリーにただただ引き込まれ、夢中で最後まで読んだ。二度目の今回は、全体が複雑な建築物のようなこの小説の、細かいところに注意しながら丁寧に読みたいと思ったのだが、結果はやはり初回同様に一気に最後まで止まらなかった。

独特の文体。切れ目なく続くのだが読みにくいわけではなく、(特に翻訳が優れていることもあって*)流れるように文を追っていける。必ずしも書かれていることを逐一、頭に入れていなくてもいい、とにかく読み進めてしまう。そうやって文章に引き込まれてしまうのだが、ところどころに「と、アウステルリッツは語った」の文句があり、そのたび少しだけ我に帰る。

モノクロ写真がたくさん挿入される。物語の挿絵と違って、写真はいやおうなく現実感を醸し出す。たとえば表紙にもなっているアウステルリッツの子ども時代の写真には、その背後の説明もあり、読者としてはそれをそのまま受け止めるしかないのだが、あまりに<出来すぎている>とも感じ、所詮これはフィクションなのだから気をつけようと自戒もするのだ。そういえば『移民たち』にも突然金閣寺の写真が出たりしたし...。写真はあまりに現実味を出すので、却って読者を警戒させる。(20世紀初頭のヴァージニア・ウルフが『オーランドー』という伝記タイプの小説にこれでもかともっともらしい写真を入れることでフィクション性を示したことも思い出す。)

とはいえ、やはりホロコーストの話になると、写真は重さを増していく。テレジンの不気味な無人の通り。母が映っているかもしれないと必死に探すゲットーの記録映画。しかし、小説の前半にもすでに人間が作ったまがまがしい建物の話も多いのだ。要塞として作ったはずの建物が収容所として使われている話や、廃屋になったカントリーハウスの豪華だった部屋に穀物の黒い袋がぎっしり並べられている様子などは、写真で突きつけられるとなんともいえず胸がふさがる気持ちになる。

建物がどのようにして建てられ、どのような運命をたどるか。そのかたわらで実に様々な人間の運命(多くは暗くて凄惨な)が重ねられるようにして物語が展開する。西洋の建物はなまじっか石で丈夫にできているぶん、簡単には消えず、その空しさが時間の経過とともに人間につきつけられる。

わたしが初めてこの小説の題名を聞いたとき、思い浮かべたのは歴史で習った「アウステルリッツの戦い」と、パリのオーステルリッツ駅だった。駅の方は主人公と同じ名前なのに、ずっと物語に出てこないので不思議だったが、最後に父の運命とともに登場する。ほかにも運命の分岐を象徴するように駅が登場する。

最初に読んだときも、今回も、圧倒的に強い印象を受けたのは、ロンドンで古い駅が壊されながら新しい駅が出来ようとしているリヴァプール・ストリート駅の「婦人待合室」の場面だ。だいたいこの場所が地下なのか、駅舎のどこなのかもわからない、混沌とした幻のような描写しかないのだが、そこでアウステルリッツの心理の一番深いところから記憶が呼び戻される。30年代の服装をした宣教師夫妻の横に小さい男の子が(まるで自分のアイデンティティのような)小さいリュックを膝に抱えている。それが、彼がずっと忘れていたイギリス到着の場面だった。

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* ドイツ語の原作は見ていないが、英語版は少し読んでみた。ゼーバルトはドイツ語で書きながら、同時進行の英訳もチェックしていたらしいから、英訳は原作にかなり近いはず。この英訳と日本語訳を比べると、長々と流れる文体は実に見事に訳されていて感心するが、違いもあって、英語版はごく基本的な単語が使われているのに日本語訳は古雅と呼びたいような語彙が多用されていて、原作にはない独特の美しさが追加されていると感じた。

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