二種類の課題

二種類の文章を授業課題として提出した。詳細は伏せる。伏せるようなことでもないが。大層な分量が書けたと満足したので恍惚的に載せる。あとで後悔して非公開にするかもしれない。なんちゃって。

と、ここまで書いて元の文章をコピペしようとしたときに、いや待てよと思うような文章だった片方は載せるをやめる。その題名は「面白い話とはなんだろうか。」

もう片方のやつは「一億円の使い方」

これは寓話にもとづいた事実です。一に勉強、二に勉強と閉じ込められた学習システムの中で経験を乏しく生きてきた若者にとって、一億円の使い方を考えることは自身のこれまでの人生を振り返ることに等しいと思います。しかしながら、その暴論と寓話でできた私の凝り固まった観念の中で、私の課題を省みることと相成りました。私自身は何を求めるのでしょうか。自分の時間はこれから何に充てられるのか考えました。時間は金に置き換えられます。私の時給910円のバイトワークは経験のために行っているような社会勉強的な側面とは異なります。私の目的のほとんどは、910円の時給、その金額を求めるためであるからです。いますぐにその一億円が手に入るとして、それは私にとってバイトワークを辞めることと同じことだと思います。知人、例えば一緒に働いている大学生にとっては同じ答えを出すと限らないでしょう。しかし、私にとっては付加価値のない事柄のように思えるのです。

内省的に自身の学生生活を振り返ることで、自分の将来を考えること、すなわち一億円の使い方を考えることになるとここまで書き連ねました。逆に、一億円の使い方を夢想し例を挙げることで、将来のことを考えることが出来るとも思います。会社を経営したい、一億円はその資金に充てたい。ここには就職先にベンチャー企業を選び取る人間や独立を目指す給料取りの野心のようなものが匂います。自分の念願や目的を果たすための手段として会社を動かそうとすること、それは社会での自分の役割を描くことが出来る一部の人間だけが抱く夢のように私は感じてしまいます。発想が貧相な私はもう一億円の使い方を思い浮かびませんでした。他人になったつもりで一つだけ例を挙げましたが、それも実際は自分の一部を切り取ったものに他ならないでしょう。

次に私自身の一億円の使い方を夢想しましょう。最初に浮かんだのは家族のことでした。養育費、学費、家のローン、両親や祖母の老後の費用、これから社会に出て得る賃金で負担しようとしていたものを一億円で払おうと思ったのは児戯に類するような事柄でしょうか。親の感謝が欲しいとか、親から独立したいとか、自分の身からでる望みとして大層なものではないのかもしれません。もう一つほど考えてみたいと思います。財団法人を設立し、その後が何も無いのですが支援を行うことによって自分の安寧と役割を保証する道具にしたいと思いました。先ほどの会社設立と異なる部分は何かという問いは、利己的な夢の実現である会社運営に対して、社会的責任と恐らくはアメリカの財団をイメージした他の職業につきながらの支援や管理をする副業的側面を強くしたものだと思います。具体的には教育的な支援や福祉的な管理を若い立場から行えればと思い描きました。

ここまでを読み返してこのような文章を就職希望先に提出するのだろうかと他人事のように思ってしまいました。見てくれを気にしながら書いた文章ながら、書いた内容自体は襟元を正した文章のように真面目らしく見えてきました。私の中の美味しいものが食べたいなり、好きな服が着たいなどという個人的な思いも、旅に出たいなり、車が欲しいといった資金不足のため頓挫している願いもおよそ一億円の1パーセントがあれば叶えられるものです。一億円が私の手の中にあったときには、それは自分の手には余りある、というよりは今まで自分が得られなかった「人と何かを動かす経験、人の幸福を生み出して自分の幸福に結びつける(分福)」を願いたいと想像しているように思います。


コピペして、読み返す。なぜこれを載せる気になった?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?