見出し画像

死生観

昨夜、対応した相談、「死を肯定することは悪いことでしょうか」。40代半ば独身男性、4年前に患ったうつ病で療養中、傷病手当が3月まで支給、5年前の父親のがんによる壮絶な死に様に接し、時を同じくしての職場での上司から受けたパワハラが原因、もう死んでも問題ないでしょうとのこと。なんとも哲学的で、相談を受けた私自身の生き方が問われる難問でした。私はこんな話をしました。死は誰にも等しくやって来ます。ある人には楽しく幸せな人生に幕を引く時が来ます。またある人には明日、突然、車が飛び込んで来て、生きてきた物語を振り返ることもなく幕が引かれます。苦しみ悲しみばかりの人生で、後悔の念で人生を終える人もいるでしょう。お互いこの年あたりから、生きる意味を探す山登りから、死ぬことの意味を探す下山を始める時期なんでしょうね。でも、やがてやって来る死の時に、どうあるべきかという答えは。みんな違って当たり前です。一般的に聞く、後悔しない人生とか、よく生きたとか。どこかの本に書かれているような話は、どうでもいいんじゃないんですか。その答えはあなたが探すしかないし、私も探し続けるしかないのですよ。これからの人生がどんなに苦しくても、誰も評価してくれない、誰も見てくれない、他人の記憶にすら残らない、そんな生き方でも、這い蹲って、答えを探していき続けるしかないでしょう。指先を見て下さい。そっと、近くの物に触れてみて下さい。触っている感触、温度、質感、物の形に沿って、器用に動いてくれますよね。どんなに心が苦しいときも、この指先とか身体は、暑いとか寒いとか痛いとか言いながらも、40数年、どんなコンピューターをも凌ぐ性能を持って揺れ動く心を支え続けていますよ。凄くないですか。だから、いつか死が向こうからやって来るまで、歩き続けるしか道はないでしょう。死ぬために必要な体力は残しておくために毎日、散歩するって言ってましたよね。枯れ草ばかりの道端が緑に変わって来たでしょう。もうすぐ春ですよ。私たちがどんなに苦しもうと、季節は私たちに確実に太陽の恵みを届け続けてくれますよ。そのことを感じるのも、生まれてからずっと一緒に一心同体にある五感なんですよ。お互い苦しかろうが、恥ずかしかろうが、這い蹲って生きて行くしかないですよ。こんな話をして、自殺年慮を収めて頂きました。ふーっ、大きく息を吐いて、話しながら、私自身、こんなことを思っていたのかと確認させられた相談でした。
20130224

ここで頂く幾ばくかの支援が、アマチュア雑文家になる為のモチベーションになります。