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叱られる子供だった

 子どもの頃はよく𠮟られた。お袋は健康であればそれだけでいいと言いながらも、よく叱ってくれた。遊んでばかりで宿題をしない。やれば出来る子なのに、やらない、努力をしない。叱られていながら、叱り具合の一生懸命さがおかしくなって笑いだして、また叱られる。落ち着きがない。お膳に肘をつくな。忘れ物が多い。年下の子とばかり遊ぶな。兄妹喧嘩はするな。嘘はつくな。人の物は盗むな。とまあ、よお叱られた。

 お袋に叱られても言うことを聞かないでいると、親父が出てきて、一喝されてしゅんとなって、その時だけ言うことを聞くことを繰り返す。当時、靴のあつらえ職人だった親父は、外面は優しく家では落差が激しく、お袋も私も怒鳴られっぱなし、家長性の権化みたいな親父で、筋が通らないことがあると、店の前を歩いている学生が生意気だと言って殴ったこともあった。何もない時は、一緒にキャッチボールもしたし、肩車もよくしてもらった記憶はあるけど、それでも親父は怖かった。

 そんな境遇にあっても、私は懲りずに悪さをした。叱られながら、言い訳があるかと問われても、言い訳はあるのに、それを表現出来ないもどかしさを抱えて無言でいると、さらに叱られ、次に反省を促される。自分は悪くないという言い訳があっても言葉に出来ないから、黙って下を向いたて、そのうち泣き始める。一度泣き始めると気持ちが乗って来て、横隔膜から肩までが波打つようにしゃくり上げるように泣く。涙は流れ洟は垂れる。そこまで行くと、お袋のちゃんとしなさいの締めの言葉で説教は終わりを迎える。切り替えは早い、もうテレビを観て笑ってしまう。今泣いたカラスがもう笑うと呆れるお袋。

 父親にぶっ叩かれたのは、小学校低学年の時、県営住宅に同居している母方の婆ちゃんの財布から10円を取ったという疑いをかけられて、婆ちゃんも攻める親父も攻める。当時の県営住宅の家賃が2,700円の時のこと。親父から叩かれた私を、ただお袋だけが庇って一緒に家出をするというシーンがあった。あの時の親父の怖かったこと、しばらくはトラウマになってしまった。

 その後もいいことはしなかったら、ある日、上野の墓地公園、今の大分市美術館のある森で遊んでいたら日がとっぷり暮れてしまって、ススキダ製靴店に帰ると、真剣怒られて、家のある城南団地まで4キロmの夜道を一人で歩いて帰らされたことがあって、まあ、両親は逆に心配して、遠く後ろから車でつけていたらしいけど、例によってしゃくり上げながら帰る夜道は恐怖だったわ。今でもトンネル脇の峠道を通ると思い出すことがあるわ。

 両親との記憶も掘り起こせば、まだ幾らも出てくるはずだけど、さあ出てこいと言って出てくるものでもないので、ふっと思い出した時に書きまた留めておこうと思う。思い出から振り落とされる前に。

 お袋は私が若い時に亡くなった。24年の付き合いだった。親父はまだ生きてるので63年の付き合い。かみさんとは32年の付き合いか。長男とは31年の付き合いだわ。愛犬とは14年か、何人かの友人たちとも長い年数になるわ。こんな年数を書き出したところで、何かが判明するわけではないけど、一緒に過ごす時間、いや同じ時代にせめぎ合った時間は、やっぱりかけがえのないものかな。そこはかとなく、取り留めもなくかな。
2021年4月15日

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