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30年の時を駆けたら醒めない余韻で迷走したよ

国鉄在職中の学び舎の同窓会が30年振りにあった。当時、郵政、電々、国鉄を三公社と呼んでいて、それぞれが3年生の幹部候補生養成の大学を持っていた。私が籍を置いていた中央鉄道学園は国分寺市にあったが、民営化と同時に、その姿は消えてしまった。そんな民営化の瀬戸際に、私たちが国鉄時代の最後の卒業生として籍を置いていた。全国各地から約半数の30数名が東京は銀座に集まった。懐かしさが時間と共に湧き上がって来る。全寮制だったこともあって、普通の大学では共に学ぶだけだが、私たちはまさに同じ釜の飯を喰ったわけだから、30年前の立ち居振る舞い、口調から仕草までも、変わることなく磨かれ、所々に風雪に綻びも見えて、もう堪らなく愛しい再会となった。ただこの30年の隙間を語り合うには、あまりにも僅かなひと時だった。帰り際に同じクラスの仲間とは再会を約束したものの、他のクラスの同級生とは、恐らくもう会うことはないだろう。きっとこの瞬間が今生の再会であり今生の別れなのかと、一抹の寂しさを感じたのは私だけではなかったはずだ。
その後、同じクラス6人で私の飛行機の時間までということで、二次会に流れた。さすがにJRを早くに退職して、福祉畑のしがない零細訪問介護事業所の事務長の懐事情を知ってか知らずか、銀座なのに大分と変わらない安い居酒屋を見つけてくれた。ここでも僅か2時間、あっと言う間に2人が飲みつぶれて、なんとか来年の淡路島での同窓会の開催を約して、私の飛行機の時間に追い立てられるようにして店を後にした。
さてさて、惜別の思いを胸に東京駅まで歩き、切符売り場で品川駅までの切符を買って山手線に乗る。同窓会の余韻が強過ぎたのか、酔ってもいないのに、ここらあたりから迷走が始まる。行きしなに読み始めた本の続きに目を落とす。次は浜松町と車内アナウンス、来た時と同じ品川から京急線で羽田空港を想定していたが、モノレールに乗りたくなった。いや違う、東京駅の切符売り場の表示から羽田空港が探し出せなかったから品川までの切符を買ったに過ぎない。この時点で少し平常心ではなくなっていたのかも知れない。そんなわけで浜松町で降り、懐かしむような表情を装いながらモノレールに乗った。さあ、一度失いかけた平常心はそう簡単には戻らない。再び、読みかけの本を捲るも、佳境に差し掛かってきていて、車内アナウンスが上の空、車内アナウンスが羽田空港と言った瞬間に我に返ってしまう。慌てて下車してモノレールを見送った時に一抹の不安が過るが、そのまま立ち止まることなく空港ターミナルへと歩く。あー来たことはあるけど、どうも様子が違う。インフォーメーションに日本語が少ないと思うと、回りにいる人も日本人でない人が多いような、ヤバイと思い空港係員に聞くと、ここは国際線ターミナル、国内線は1階の無料シャトルバスで移動して国内線第?ターミナルで下車して下さいとのこと、失敗したことを誰も知られていない状況を一人で味わう情けなさを抱えて、バスに乗込む。搭乗時間が近づいて来る。国内線第2ターミナル行きを社内放送が伝えているものの、第2だったか第1だったか、道案内で一つ先までしか記憶出来ない人の特徴で、バスに乗ることから先を聞いてなかった。ここでも表情には出さずに一人でバッグから航空券を取り出しては、運転席後ろの掲示板表示が見えないことで降りていい場所が第2なのか第1なのか特定出来ない。携帯を取り出しネットで「羽田空港第1ターミナル JAL」と検索キーワードを入力して、やっともう一つ先であることが確認できて、ほっと胸を撫ぜ下す。まだ予断は許されない。目的のターミナルビルに着いて、1階を右に左に探せども登場カウンターが見当たらない。後10分、飛行機を待たせたら大ごとと、どこか分からない端っこのスマイルサポートに時間がないんですと駆け込むと、搭乗ロビーは2階で、しかも時間はまだ1時間もありますから、ごゆっくりどうぞと言われ、はっと三度我に返ると、そうだ搭乗ロビーは昔から2階だったこと、帰りの搭乗時間も同窓会の会場で一番に聞かれて答えたときに伝えた時間に間違いない。だったらもっとゆっくり皆と話も出来たのにと後悔してみたものの、良く考えたら1時間遅れても、間違うことなくこういう状況を迎えるわけだから正解でしょうと心の声が囁く。お陰で佳境を中断された本が役に立つ時を待っていてくれた。やれやれ、大人の旅は疲れるわ。

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