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小さくて明るくかわいい働き者(母について)③
母は学生の時はモテたという話を本人から聞いた。小さくて明るくて愛想がよく、いつもニコニコしていたからであろう。
帰る時などに男の子が手を振っていたという話を本人から聞いた。あくまでも本人からだけど(笑)
それでも若い時の母の写真は十分かわいかった。
いつもニコニコして愛想がいいという点で言うと、母は初対面の知らない人でも平気で話しかけた。
これは僕には出来ないことだったので、大人になってから僕はそれを見習おうと思って、なるべく普段はニコニコして、知らない人にもなるべく挨拶するようにした。
けれどもニュースで報道されるような、小さい子どもの誘拐事件の影響もあって、知らない人に声をかけられてもついていってはダメだというような風潮から、気軽に挨拶をすることさえもためらうようになってしまった。
これは悲しいことだと思う。
話を戻すが、家族で郡上だったか、どこだったか忘れたが、ヤナという川魚を釣り堀のようにつかまえて、調理できるようなところへ行ったことがある。というか、ただその場を通りかかっただけであるが、いつものように母は知らない人にも愛想よくニコニコして歩いていたところ、全く知らないその場にいたおじさんに話しかけられて、取った魚をくれるというので、断るのも悪いからもらうことになったのだが、それが半端ない量で、冷蔵庫、冷凍庫に入りきらないぐらいのニジマスをもらって、困るほどだったということがある。
これは母が愛想がよかったということを証明する、最も典型的な例であろうと思う。
だから母は結構広い人脈があって、友達もたくさんいたように思う。
また、困っている人にも優しくするところがあった。けれども、お金の貸し借りだけは絶対にしなかった。それをしてしまうと、お互いに関係が崩れてしまうことをよく知っていたからだ。これはとても偉い点だと思う。
母は本当は実家でやっている床屋になりたかったらしい。しかし、昔は身長制限があったらしく、小さな母はそのために理容師免許は取れなかった。
それで学校を出てから、材木問屋か何かの事務の仕事をしていたと思う。
そして、結婚をしてからもずっと働いてきた。それで僕が学校から帰っても母がまだ帰っていないということもよくあった。
夕方になると母が帰ってきて、晩御飯の支度をしてくれた。本当に朝から晩まで働きづめだった。子どもの時はそのありがたみがそれほどにはわからなかったが、東京で一人暮らしをしてから、本当にそのありがたみが身に染みてわかるようになった。
それなのに僕はとにかくよく病気をしたし、ケガをしたし、さんざん苦労と心配をかけた。
夜、ぜんそくでせきが出るので眠れなくて、よく寝ている母を起こして、庭の木になっていたカリンの実を砂糖漬けしたものから出た汁をお湯で割ったものを飲ませてもらった。すると、せきが治まってなんとか寝ることが出来た。これを何回作ってもらったかわからない。
僕はのどが弱かったのだ。いまだにのどが弱いので、とにかくよくうがいをするようにしている。
つづく
読んでいただきまして、ありがとうございました。また次回、お会いできたらうれしいです。
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