自分の成り立ち①

小さい頃から家族に違和感があった。

母は生粋のお嬢様育ちで小学校なら大学卒業まで私立の女子校に通った。

父は公務員で真面目一本。一般家庭で育ち、浪人しつつも有名国立大学を奨学金で通い卒業した。

煙草も吸わないし、賭け事もしない。

母は善かれと思って私達姉妹に数々の英才教育を施した。

今考えればかなりのお金を注ぎ込んでいたことが想像できる。バイオリン、ピアノ、英会話、バレエ、水泳など

母はバイオリンの練習中綺麗な音色やリズムを刻めない私達には頻繁に手をあげた。

何でできないの!

そんなこと自分でも分からないのに。


私は根っからの自由人、気分屋だったので

すぐに数々のお稽古ごとに行かなくなった。

姉は違った。母の期待に応える為、必死に稽古した。


私立の幼稚園受験も同じことで

姉は素直に受験して、私立幼稚園へ通った。

私はたくさん見学に行って、幼いながらにあそこ嫌、ここ嫌、と駄々を捏ねて皆んなと同じ幼稚園に通った。

我が家には誕生日にホテルへディナーへ行く習慣があった。

どうやら、一流ホテルでの所作を叩き込んで

他所様で失態を晒すことが無い様にだったらしい。


でも、うちの両親は出掛ける前に必ずと言って良いほど、派手な喧嘩をする。

そして、必ず離婚話になる。

物心ついた頃から私は自分の誕生日には、母の手料理が食べたいから家が良いとお願いするようになった。


ちなみに幼い頃の我が家のルールは

両親には敬意をもって敬語で話すことが一つあった。勿論、祖母に対しても。

汚い言葉や所作が見られたら母からビンタがとんでくる。当然、クレヨンしんちゃんやセーラームーンは見せて貰えなかった。

母が仕事で帰りが遅い日に姉と一緒に夕方のドラゴンボールを見るのが至福の時だった。

自分にとって人生イチ退屈な時はこの3〜5歳だったと今でも思う。

転勤族だったから幼稚園、保育園ではたくさん虐められた。今思い返せば自分が悪いし、虐められるくらい性格も悪かったし愛嬌も無かった。


小学校は受験論争も無く、平和に入学できた。

だけど母は態々、県外の英会話教室に通わせた。

ここからが地獄の始まり。

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