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2019/10/12、天国と地獄のはなし

主観なんでどうにでも。

ファム・ファタール(仏: Femme fatale)は、男にとっての「運命の女」(運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手)の意味。また、男を破滅させる魔性の女(悪女)のこと。
Wikipediaより

突然の引用で驚かせてしまったかもしれませんね。どうも、とりあえずこれだけ言っておきます。
この記事は九割九部九里個人の意見で構成されています。この先は他人の思考を覗いても憤慨せず楽しむことのできる方のみ閲覧をお願い致します。
ネットはこわいからね。予め予防線張っとこうね。
ということで天国に猛反発するお話です。あまり面白いことは言えませんが、お茶請け程度にどうぞ。
地獄、いいですよね。そう言うと大体の人が「は?」と言うでしょう。私もそう思います。しかし、しかしです。よく地獄と対にされる天国って、そこまでいいもんですか?
そもそもの天国の定義ってなんでしょうか。キリスト教の天国や仏教における天国である浄土や極楽などを調べてみると、「苦痛や煩悩がない、幸せに暮らせるところ」だそうです。
苦痛がない、それはいいことです。多くの人は苦しいのも痛いのも嫌ですからね。けど、煩悩がないっていいことか?それって人として機能してます?
人には欲というものがあります。三大欲求は勿論のこと、物欲、承認欲、知識欲など…数えたらキリがありません。だって人間だもん。本性は常に我利我利君だもん。イドとエゴとスーパーエゴがどつき合いながら頑張ってるんだもん。
その欲を、煩悩を無くしたら、暮らしていく意味なんて分からなくなってしまうのでは?呼吸だって睡眠だって、私達がしていることは小さな欲を叶えることでしょう?呼吸をしないと息が苦しくなってしまう、寝ないと頭が痛くて状況把握も考えることもできなくなってしまう。欲がないってそういうことでは?
まあ、だったらそんなことにならない体にしちゃえ〜っていう話とかもあるんですけどね。そんなこと言ったってよぉ、それにゃあ浪漫が足りねえよなぁ?!
幸せに暮らす為には欲とそれを満たすものがなくてはなりません。無欲でいるのならそれはひとではありません。死んでいるからいいとか、そんな言葉で済まされて堪るものか。それは幸福と結びつかないじゃないか。神からの愛が平等に降り注ぎそれを受け取ることが幸せか?そんなの、人で無くなったも同然ではないか。吸血型かよ、しっくりこない。幸福論を語り騙るつもりはないですが、無条件下で愛されるだなんて、少し憧れると同時に凄く寒気がします。親子や恋人間ならまだしも、友人を一切の損得勘定無しで愛せるのかと思ってしまう。……なによりも、そんなのってこわいよ。

と、思っていたのが数週間前。
……なんかね、わかっちゃったよね。
しあわせになりたい。なんにもかんがえず、あいされて、ここちよくなりたい。
結局、こういうことなのだなあって。
現実逃避であるとは思うんです、それは理解しているんです。
ま、ここまでやって「天国行きたい」なんて言ったら異端者のフォーク行きなので……あ、ここ笑うところですよ!

で…なんで冒頭でファム・ファタールのことを引用したのかというと、地獄に落とす運命の相手に憧れてるからです。みんな誰ソ彼ホテルやってくれ…。
地獄って、こわいところなんですよ。醜くて、罪深くて、可笑しいとされる人物たちが来るところですから。でも、それはとっても面白いでしょうね。たとえば、うーん、同性愛。ひとを愛したから地獄に行くのです、本来なら善行の筈の、美しい想いでさえ、ひとを殺したり虐めたり、罪を犯した愚かで狂った愛おしいひとたちと共に地獄に導かれる。これほど面白くて苦しいことって、ありますか?はは、最終的に天に行くのは、つまらないやつらでしょう。
罪を償い、悦ぶなど。
そんなのって、あんまりですよね。
そんな感じで、天国と地獄のはなしでした。今日のヘッダーかわいいので単体でおいときます、それでは。

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