ハキム・ベイ『T.A.Z. 一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム』読書会(4/4)

p.187(TAZ/一時的自律ゾーン)〜終わりまで

レ(ガスピ):この章はそれまでと比べるといかんせん読みやすいですね。ハキム・ベイの思想の核がわかりやすい部分だと思いました。
キュ(アロランバルト):今までのビラと違ってこれまで回避してきたTAZの定義をしていますね。これまでの体系づけられることへの反感がないというか、わりと理路整然と語っている感じがあります。
虚(ペン):アナキズム、ドゥルーズ・ガタリの思想だとか、あとはサイバーパンクとネットとウェブの話とか、それまでほのめかしてきたものをわかりやすくネタばらししてくれている。
キュ:サイバー的な話をするじゃないですか。木澤さんの本でもあったようにインターネット黎明期のハッカーは政治的叛逆者のスタンスが強かった。海賊の話をしてますけど、海賊ってひとつのユートピアみたいなものじゃないですか。海賊版(ブートレグ)っていうのがあるように、インターネットの海賊性、脱領土的な力が期待されていた時期だからこそこういう話をしてるのかなと。今は漫画村などが著作権問題で批判されるわけですが、それは海賊性の文脈ではある種期待されていたものなのか。
レ:グレーバーの『民主主義の非西洋起源について』にも海賊の話が出てきましたよね。
キュ:海賊がある種アナキズムの典型例としてあった。グレーバーによれば複数のアイデンティティをもった人たちの隣接点=あいだの空間に民主主義が生まれる。海賊もさまざまなバックグラウンドがあるから民主的な制度になりやすい。
レ:しかしそれはやっぱり荒波をゆく船という前提があってこそなんですよね。船から落ちたら死ぬわけですし。死と隣り合わせじゃないと合意形成が成り立たない限界状況みたいなのは危険と紙一重すぎるよな〜とも思います。
キュ:ハキム・ベイも別名義で海賊の本書いてますよね。海賊がアナキストにとってのユートピアみたいなところがある。日本にも海賊がいたわけじゃないですか。長崎にも「製糞社」というアナキスト組織があった。
レ:僕は高校生のころたまに東京に行く機会があったんですけど、東京に行ったらかならず大きいレコード屋に行ってたんですよ。もうなくなっちゃったんですけど渋谷にレコファンという大きいレコード店があって、そこでよく海賊盤をあさってたんですよね。海賊盤って主にライブ音源なんですが音が悪いとだれも買わないわけです。だから政府なき市場競争じゃないですけど、一種のアナルコ・キャピタリズム的な市場原理で淘汰されて音質の良い音源しか残らないんですよね。そこが面白くて。でもそこの「研鑽」の部分とネオリベ的なものは紙一重で危ない。
虚:ハキム・ベイが前書きで「一番弱いところは恐らく、インターネットについての部分だろう」と言っていて、そこを読んだときはまだピンときてなかったんですけど、今回の箇所を読むとネットに寄生するものとしてのウェブを期待しているような書き方をしている。第二版への前書きが書かれたのが2003年で、T.A.Z.の章が書かれたのが1989年ごろなので、ハキム・ベイのインターネットそのものへのアナキズムの期待と失望は急激に進んだんだなと思いました。
レ:p.220「『情報経済』なるものが存在するという。多分そうなのだろうが、『オールタナティヴな』BBSをあいだにやり取りされる情報は、無駄話やいらいらするような会話がそのすべてのように思える」。これってツイッターの悪口じゃね?って傷ついちゃったんですよね。実際ツイッターに一番最初に投稿されたツイートが何億円で売れたみたいな話があった。僕、ビットコインの話しようと思ったんですけど、ビットコインの知識が上田岳弘の『ニムロッド』しかなくて、あれをビットコインの解説書として読むのは間違ってる気がするんですけど…なにもないものに価値を与えて大金を生み出してるわけじゃないですか。そこが面白いと思って。現実では質量保存の法則で不可能な無からの生成をインターネットではできてしまう。
虚:インターネットのバーチャルな空間が物質世界と切断されて存在するということは、記号的な事実としてはあるけども、それを支えるものとして物質的なもの=ハードウェアが存在するわけですよね。東浩紀が『ゲンロン0』でインターネットの空間をサイバースペースみたいに想像するのは違うんじゃないかみたいに批判してましたけど。落合陽一の『デジタルネイチャー』でも、入力と出力が即つながっている、無媒介なエコシステムとしてディープラーニングを記述してたんですけど、今のインターネットが物質的なプラットフォームと切り離されたバーチャルなものと感じられるのと同じように、ディープラーニングの入力と出力というものが無媒介に思えるのも、単純にその間で起きている膨大な記号の操作が人間に理解できないかたちで行なわれているからであって、決して無媒介ではないわけですよね。そこで落合が華厳経の事事無碍を持ち出してくるのもぜんぜん違うだろうと思います。『T.A.Z.』のサイバーグノーシス主義と落合的仏教は別物だと思いますが、インターネットや統計学、ビッグデータを使ったテクノロジーで起きる情報科学的なことは、記号に支えられた恣意的な体系の操作ではないという言い方や、その操作の恣意性をすっ飛ばしたインターネット・テクノロジーにおける入力/出力って自然科学のアナロジーとは別物じゃね?とは最近思うところです。もう一点、インターネット黎明期の期待と失望が90年代〜ゼロ年代にあったと思うんですけど、僕らは二度目のインターネットやアナーキズムへの期待と失望が返ってきたところに生きてるのかなと。その一度目と二度目の異同って何だろう。
レ:ハキム・ベイ、だいぶ早い時期に諦めてますよね。『T.A.Z.』での現実とインターネットという二分法は今読むと時代の限界があると思いました。東はたしかフィリップ・K・ディック的な、現実に蔽い被さる亡霊的なかたちでサイバースペースがあると言ってましたよね。あの見立てでいうとSNSでのハッシュタグデモの問題と絡んでくるんですけど、うまいこと言えないですね…。
虚:ふと思ったのが、ハキム・ベイは寄生的かつカウンターカルチャー的なものとしてウェブ、大きなネットワークに寄生するというのを考えていたと思うんですけど、今はその寄生/被寄生の関係が逆転している気がします。(以前は)大きいシステムに対してそれらの網目をすり抜ける分子的な個々の抵抗があると考えられていたと思うんですけど、むしろ現在はSNSという膨大なデータの溜池に寄生的なかたちで分析のシステム(SNSであればテキストマイニング)があるわけですよね。プラットフォームを提供しながら、そのプラットフォームを利用する人々の生み出すデータにさらに提供側が寄生して価値を生み出す、というねじれがあると思います。SNSが実際的な抵抗運動というところで現実世界との相互関係が生み出す潜勢力があるのはそうなんですけど、SNSの言説でいえば、個々の差異をざっくり分類できるものにしてセグメント化して寄生的に活用されることで、インターネットの言説が権力に回収されるのではないかと。
レ:その話を聞いてると近代国家の都市改造ととても似てるなと思いました。平安京も都市をマス目に区切ってセグメント化してるわけですよね。フランスのシャンゼリゼも道路をならして無理やり秩序を生み出している。むしろその網目からTAZが起こってくるという解釈もできるんですけど、そこが難しいよなという。
虚:それこそ、データベースに上がってくるものを資源として機械学習にかけて使える形にしていくときに、もともと大量のデータを持っているほど強いというのがITの現状なわけですけど、SNS=AIの技術というわけではないので、データを収集するためのプラットフォームに寄生するかたちでSNSをハックする方法はいろいろあると思うんですけど、そこで吸い上げたデータを使ってさらに強い機能を実装させて資本を加速させていく上では、現状のデカいIT企業が握っている苦しさはあるよなあと。
キュ:マルクス・ガブリエルはSNSを運営する人たちに金銭を要求しなければならないと言ってます。つまり、僕らの言葉が資本化されて資源としてあつかわれる、資本主義の売春が行なわれているのに、僕らはSNSの楽しみだけを得て、金銭に変えられている面に対してみずからの利潤を請求できていない。それに対して異議を唱えなければいけない。ネグリもわれわれの認知資本主義における知能の貸し出しについて言及している。今の社会における頭脳労働は、生産手段の一部としてわれわれの脳、知識を資本家に貸し出している状態なのに、貸し出す側に貸与物の価格決定権がない。ネグリはあらゆる労働者が自分たちの一部分を無償で貸し出させられていることに対して、ベーシック・インカムなどでその分を請求する必要があるという話をしていて、そこにつながるところがあると思いました。さっき虚ペンさんが言った「二度目のインターネットの希望」ですが、ビットコインもそうですけど、リブラ(Libra)も急進的な思想に基づいて考案されたものじゃないですか。口座を持つことができない貧しい人たちに対する貯蓄手段として、国家ではなくオープンな貯蓄なやり方として開かれたものを作るという話だったんですけど、けっこう保守化して方針が変わったらしくて。加速主義も仮想通貨による脱国家化みたいな幻想があるじゃないですか。一つのテクノロジーへの第二の幻想として加速主義は顕著な例なのかなと思って。あと単純にSNSは実際の運営に土地がめちゃくちゃいる。僕らが普段考える以上にSNSはマテリアルなものとしてあって、勝ってる人たちが勝ち続けるシステムになっている。マルガブも私たちは一度も脱物質化していないと言っている。僕らは孤立してインターネットだけで人とつながることができたとしても直接人と会うことを選ぶ。人が密集するような場所はお金がかかるけど、そうしてまで人は集まる、そこから逃れられない。
レ:でもそこにもジェントリフィケーション問題がありますよね。ナイキの公園とかそうですけど。
虚:公共圏と呼ばれるものがどんどんなくなっている。さっきキュアバルトが言ってた、データの産出者が価値を生産しているからBIなどで見返りを求めるべきだという議論については、EUにGDPRというのがあります。ある個人が異なる企業を使うとなったときに、顧客が生み出したデータの所有権は顧客本人にあるのだから、企業が保有している個人のデータを別の企業に移したり、自己管理をもっと細かくできたほうがいいんじゃないかというので2016年ごろに作られました。EUは中国やアメリカとは違う形で個人情報を利用者本人が管理して企業に使わせないようにしようというはたらきをしている。
レ:p.208にTAZの具体例が出てくる。「砂漠の夜空の下で張られたテント、秘密の隊商路沿いの隠蔽された要塞のようなオアシス、『解放された』一握りのジャングルや荒れ地、立入禁止地帯、ブラック・マーケット、そしてアングラ市場」。「立入禁止地帯」で、タルコフスキーの「ストーカー」を思い出しました。いわゆるTAZ的に「ゾーン」と呼ばれる地帯があって、そこに行くと夢が叶うって話なんですけど、よく言われるのは「ゾーン」が原発事故跡地ってことで、でも原発事故跡のことをTAZと呼ぶのはなんというか…なんというかですよね。
虚:さきほども話した上下空間をのがれるものとしてのTAZだと、立入禁止という権利によって管理しえない、人間には入れない自然にとっての解放区になってるところはありますね。原発事故においてもあれだけ後始末が大変なのも人間をしりぞける「ゾーン」になっているからであって…彼らは海賊でありウイルスであって、とありますけど、人類を括弧に入れたらノマドとか海賊、ウイルスはひとつの不可視のものであり、かつ網目をかいくぐるものとして現に存在するところがありますね。
キュ:p.193「革命を待ち受けること」で、革命を批判してるじゃないですか。ここはわかるなって思って。p.195「『その革命』が成就して『国家』が復帰する時には、〈既に〉その夢と理想とは裏切られている」。革命は永続性がある絶対的なものだが反乱は一時的だって話はわかるなと思いました。反乱はある種あらゆるものから逃れる一時的自律ゾーンですけど、革命は成就されればそれが正解になるわけで、反乱が革命に回収されるとすれば一時的な自律でしかない。それはどちらともいえるというか、一時的な自律だからこそ反乱に価値があるともいえるし、革命が成就してしまうことで反乱も一時的な自律でしかないといえてしまう、もどかしい感じがある。先日外山恒一と飲んだときに、彼の言うファシズムと毛沢東主義は本質的にそんなに変わらないんじゃないかという話をしたんですが、毛沢東における行動の失敗と修正は絶対的な真理にたどりつくためのプロセスでしかなくて、共産主義自体そういうものなんで仕方ないんですけど、革命もそういうプロセスの結果でしかなくて。それに対してハキム・ベイが批判的になりつつ、革命を起こすのではなく革命を「待ち望む」ことを重視するのは一時的自律ゾーンの本質的なところなのかなと思いました。
レ:よく日本の歴史には革命がないからダメな国だっていわれますけど、一向一揆、米騒動、ええじゃないかみたいに、その都度反乱は起きてるんですよね。そこを肯定的に捉えられる契機にはなると思います。
虚:中沢新一が『僕の叔父さん 網野善彦』という本で、日本の学生運動の投石での抵抗を中世の民衆の抵抗運動と重ね合わせたという話から、『無縁・公界・楽』で書いたようなアジールの話に行く、ということを言っています。網野善彦の前の世代の平泉澄という人が、アジールは体制によって統御されていない否定的なもので滅び去る宿命にすぎないと言ったんですけど、網野はそこを寺院との関係性から肯定的にとらえた。日本の民衆史の古層のほうから蜂起を見つめ直そうという、左翼思想との関係から網野はそんなことを言っている。
レ:「攻撃を加えたら逃げろ!」と言ってて。ヒットアンドアウェイ戦法ですよね。フロンティアの消滅ということがいわれていて、いわゆるホッブズ的自然状態がないと。今アフリカが経済最後のフロンティアといわれているのが僕はめちゃくちゃ嫌なんですが、そこでタックスヘイブンをどう考えるかという問題が出てきて。僕はタックスヘイブンはフロンティアの内部にフロンティアの外部を作るというふうに考えてます。といっても税金が安くなるだけなんですが、でもじゃあタックスヘイブンをTAZ的に捉えられるかっていったらまったくそんなことはないわけですよね。本来国に入るお金を横流ししてるだけだし。
虚:私的所有をそのままに権力からの自律というところを推進していくとリバタリアニズム的なものと結びつきやすい。最近プルードンをちょっとずつ読んでるんですけど、プルードンって経済思想だけ読むとめちゃくちゃ自由主義で私的所有の否定の一本でもってるところがある。当時のフランスは資本の蓄積が大規模に起きてないからだとは思うんですが、小さい経営者の自律的な連帯で経済を正常なものにしていくという。プルードンは政治革命には否定的で、あくまで政治権力を経済から取り除いて相互の交換関係を純粋なものにして良い社会をつくっていくみたいに言っているので、今の資本主義の発想が立ち現れるまえに生まれた考えが一周回って現在の状況に近いというか。タックスヘイブンや、右派加速主義、リバタリアニズムとアナーキズムやインターネットの関係性とも近いところがあると思います。
レ:プルードン、資本主義を肯定してるんですよね。
虚:彼の思想が現代の自由市場主義ととても近くなってしまっているところはありますよね。
キュ:『賃労働と資本』の補項だか注にプルードンの『貧困の哲学』を批判している箇所があります。プルードンは労働にかけられた分を価値にして、利潤を生み出さずに商品を販売すべきだと主張していて、それをマルクスは批判している。つきつめると労働と労働力は違うという話なんですけど、つまり、実際に資本家が労働者から買っている労働力と労働が生み出す利潤は別で、それは資本家が決定できる問題ではなく、あらゆる下部構造に規定されることだから、競争というか、資本主義というシステムは利潤分のズレがないと価値を生み出せない、その面をプルードンは考慮してないよね、ということです。
虚:p.249はプルードン的に読めると思います。「自営業者の増加と、福祉詐欺やその他の犯罪の選択肢、マリファナ栽培等々といった、『闇』経済と『闇の仕事』(…)への参加」と露悪的に書いてはいますけど、要するに、現在の資本制での生産をやめて、それとは異なる自営業者のアソシエーションによる経済圏の創出ですよね。発想としては柄谷のアソシエーショニズムと近いと思いました。p.246「消滅としての権力への意志」は、これまで詩的に書かれたために具体的な戦略が見えづらいところをリアルな抵抗戦略として実践的に書いているのでわかりやすかったです。
レ:p.206にドゥルーズ=ガタリの『ノマドロジーと戦争機械』という本が取り上げられているんですけど、こんな本ほんとうにあるんですか?調べても出てこなくて。副題か何かなのかな。
虚:ここ多分、『千のプラトー』第12章の「遊牧論あるいは戦争機械」のことだと思います。
キュ:急に飛んでもいいですか?p.239「組織原理としての音楽」でイタリアファシズムの話をしてるじゃないですか。ここでパゾリーニの「ソドムの市」を思い出しました。原作の『ソドム百二十日』から舞台を20世紀のイタリアに移して、ファシズム的な文脈に置き換えている。そこにかなり印象的なシーンがあって、毎晩みんなで宴会をするんですけど、何日目かで全員で歌をうたうんですよね。そこだけ奴隷も高踏派もみんな円満で特異なんですよ。特にオチはないです…。
レ:筋だけ聞いたら「地獄の黙示録」と似てますね。
虚:最近ズラウスキーの「ポゼッション」というヤバい映画を見て良かったんですけど、視覚的なインパクトが強いので体調を崩すのが怖くて、パゾリーニはまだ見れてないですね…。
(以降しばらく「ソドムの市」の紹介が入る)
キュ:すみません、ぜんぜん関係ない…。
レ:僕が戻します。p.224で、TAZにはコンピュータは不可欠の要素ではないけども、非ヒエラルキー的な情報をネットワークを張る最高の潜在力をもつと言ってますけど、その夢はもう崩れてますよね。インフルエンサー、オンラインサロン、いたるところで囲い込みがされているわけで…。
虚:地図に回収できない地形の襞という文脈でフラクタルやカオスの話が出てきたんですけど、そのへんは元ネタのドゥルーズ=ガタリ感がありますね。
レ:文化人類学に依拠して、「家族よりもバンド」って話が出てくるんですけど、ここを読んでエリザベス・ブレイクというフェミニストが唱える「最小の結婚」論を思い出しました。ヘテロ的に男女が結婚するといろんな権利がそのカップルに付与されるのではなく、権利を分割して、いろんな人と婚約関係を結ぶことでトロフィー解除みたいに権利が付与される、という考えです。
虚:今の結婚制度がいくつもの機能を束ねているのに対して、それらをバラバラにしてカスタマイズしながら様々な人と関係性を再構築していこうという論旨ですか?
レ:そんな感じです。でもこれも問題があって、友達がいなくてモテない人はどうすればいいんだという話ですよね。どうしようもないやんけという。
虚:事後的に共同体を再構築する際に、これまでの共同体が無理やり束ねていたものが排除されるところはありますね。
キュ:似た話だと、石山アンジュが「シェアリング・エコノミー」という、お互いに認めた人たちを家族にして一つの共同体を作ろう、みたいな議論をしています。

references
D・グレーバー『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』(以文社, 2020(絶版))
上田岳弘『ニムロッド』(講談社文庫, 2021)
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン, 2017)
落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS, 2018)
武村光裕『さよなら、インターネット––––GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社, 2018)
中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書, 2004)
マルクス『賃労働と資本』(岩波文庫, 1935)
ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー―資本主義と分裂症』(河出書房新社, 1994)
エリザベス・ブレイク『最小の結婚: 結婚をめぐる法と道徳』(白澤社, 2019)
石山アンジュ『シェアライフ 新しい社会の新しい生き方』(クロスメディア・パブリッシング, 2019)


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